面白い

音の繭

大学進学を機に一人暮らしを始めた健太は、引っ越し荷物の中に父から譲り受けた古いヘッドフォンを入れていた。黒い革が少し剥がれ、金属のフレームには細かな傷が走っている。新品のような輝きはとうになかったが、耳を覆うと不思議と世界が静まり返り、音楽...
面白い

きゅっと締めて、前へ

朝の通勤電車の中で、佐藤はふと自分の胸元に目を落とした。結び目がやや歪んだネクタイが、ぎこちなく彼のシャツを押さえ込んでいる。鏡を見たときはきちんと結べていたはずなのに、電車に揺られているうちにずれてしまったらしい。彼にとってネクタイは、た...
ホラー

路地裏の赤い手形

その街には、誰もが知っているが口には出したがらない都市伝説があった。駅前から少し離れた古い商店街の裏手、人気のない細い路地を真夜中に通ると、壁に赤い手形が浮かび上がるというのだ。ただの落書きだろう、酔っぱらいがつけた手垢だろう。そう笑い飛ば...
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金木犀の下で

秋の風が少し冷たさを帯びてきた頃、町の路地裏に金木犀の香りが漂い始める。橙色の小さな花が塀越しにのぞくと、人々は立ち止まり、懐かしいものを胸いっぱいに吸い込む。香りは記憶を呼び覚ます扉のようで、誰かにとっては子どもの頃の帰り道であり、誰かに...
面白い

梅昆布茶は心を結ぶ

春の風がまだ肌寒さを含んでいたある日、商店街の片隅に小さな茶舗「一服庵」があった。棚には緑茶やほうじ茶の缶が並び、奥には古びた急須や茶器が整然と置かれている。その店に一つ、控えめに目立たぬよう置かれていたのが「梅昆布茶」であった。梅昆布茶は...
食べ物

小さな実が結ぶもの

南国の太陽がじりじりと地面を焼き、潮風が葉を揺らす小さな港町に、ひとりの青年が住んでいた。名をリオといい、町で唯一のナッツ職人だった。彼は毎日、乾いた風にさらされる木々の実を拾い集め、塩で炒ったり甘く煮詰めたりして、港に立ち寄る旅人たちに売...
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木の温もりを伝える箸

山あいの小さな町に、古びた工房を構える箸職人・庄吉がいた。年は七十を越え、白髪と深い皺が刻まれていたが、その眼差しは木を前にすると若者のように輝いた。庄吉の箸は「手に馴染む」と評判で、遠くの都会からも注文が来るほどだった。しかし彼は決して大...
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風を越えて

中学二年の春、陸上部の練習場に並ぶ白いハードルを前に、遥(はるか)は足を止めていた。背丈ほどもあるそれらは、彼女にとって巨大な壁のように見えた。「走るのは好きだけど……これを飛び越えるなんて」短距離が得意で入部したはずなのに、顧問に勧められ...
食べ物

白い層のひみつ

喫茶店「ミモザ」は、小さな駅前の路地にある。木製のドアを押して入ると、いつもほんのり甘い香りが漂っている。その香りの源は、店主の遥(はるか)が毎朝仕込むケーキだった。彼女がとりわけ心を込めて作るのが「レアチーズケーキ」だ。雪のように白く、口...
動物

森の王、虎の誇り

深い森の奥に、一頭の虎がいた。名を呼ぶものは誰もいない。ただ「王」とだけ、獣たちに呼ばれていた。金色に輝く眼と、縞模様の毛並みは、夜の闇でもその存在を隠しきれないほどの威厳を放っていた。王は力強く、誰よりも速く、そして何よりも誇り高かった。...