食べ物

食べ物

ジャージャー麺のある風景

昼下がりの商店街。古びた時計屋の隣に、赤いのれんがひらひらとはためいている。店の名前は「栄楽亭」。メニューの一番上には、堂々と「特製ジャージャー麺」の文字が書かれている。佐伯ひろし、五十五歳。商社勤めを早期退職してからは、週に三回、この「栄...
食べ物

緑の一杯

駅から徒歩三分、古いアパートの一階にその店はあった。看板も出ていない。ガラス越しに見えるのは、木のカウンターと、壁一面に並んだガラス瓶。赤や緑、オレンジの液体が、陽の光に照らされてきらめいている。その店「ジュース工房・あおば」の主人は、藤井...
食べ物

月灯りの大福

春野遥(はるのはるか)は、三十歳を目前に控えた会社員だ。職場では無難に働き、友人とは適度な距離を保ち、恋愛はご無沙汰。そんな彼女の唯一の楽しみは、大福を食べることだった。白あん、黒あん、よもぎ、いちご、塩豆、ティラミス、チョコレート、マスカ...
食べ物

ぜんまいの道

山深い村に住む老女、佐和子(さわこ)は、春になると毎年のように山へ分け入り、山菜を摘むのが何よりの楽しみだった。中でもぜんまいは特別だった。ぜんまいは他の山菜より手間がかかる。摘むのにも目がいるし、持ち帰ったらすぐに茹でて、揉んで、干してと...
食べ物

冬の灯、牡蠣小屋にて

玄界灘の潮風が冷たく吹きすさぶ冬の日、港町・佐賀の片隅にひっそりと建つ一軒の牡蠣小屋がある。「牡蠣焼き つばき屋」。プレハブ造りの簡素な建物だが、夕暮れになると白い湯気とともに人々の笑い声が漏れ出す。その日、暖簾をくぐって中に入ってきたのは...
食べ物

焼けたホルモンの向こう側

阿部拓真(あべ・たくま)、35歳。独身。趣味、ホルモンを焼くこと。焼くというより、「焼き加減を極める」と言ったほうが正しい。彼は週に四回は必ずホルモン専門の居酒屋へ足を運び、炭火の前で黙々と網の上の小腸やシマチョウ、ミノに向き合っていた。「...
食べ物

月のチョコパイ屋

静かな港町、蒼崎。潮の香りが町の隅々に染み込んだその場所に、一軒の小さなチョコパイ専門店があった。店の名前は「ルナ・パイ」。店主は三十代半ばの女性、木村千紗。もともとは都内の広告会社で働いていたが、ある日突然、仕事も家もすべてを手放し、この...
食べ物

梅干しと春の記憶

陽子(ようこ)は幼い頃から梅干しが好きだった。ただの好きではない。人がスイーツに目を輝かせるように、彼女は梅干しに心をときめかせた。「お弁当、今日も梅干しだけ?」母は時々、心配そうに尋ねた。ご飯の真ん中にぽつんと置かれた梅干し。それだけで陽...
食べ物

モッツァレラの向こう側

佐倉陽一(さくらよういち)は、どこにでもいる三十代のサラリーマンだった。営業の仕事は嫌いではないが、特別好きでもない。ただ一つ、彼の人生において確かな「情熱」と呼べるものがある。それが——モッツァレラチーズである。最初にモッツァレラを食べた...
食べ物

小松菜日和

朝の光が差し込む小さなアパートのキッチンで、加奈(かな)は鼻歌を歌いながら包丁を握っていた。まな板の上には艶やかな緑色、小松菜。昨日スーパーで買ったばかりの新鮮な一束だ。「やっぱり、この香り……落ち着くなあ」小松菜といえば、ほうれん草の陰に...