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黒の粒の美学

黒瀬翔子(くろせしょうこ)は、スパイス専門店「胡椒館(こしょうかん)」の店主だ。東京・下北沢の路地裏にひっそりと構えるこの店は、看板も目立たず、通りすがりの人にはカフェかギャラリーのように見える。それでも、一歩中に入れば、所狭しと並んだ瓶詰...
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パンの香りがする家

佐和子(さわこ)は四十歳を過ぎたあたりから、家でパンを焼くようになった。もともと料理は嫌いではなかったが、毎日の食事作りに追われるうち、ただの「義務」になっていた。そんなある日、近所のパン屋で買った焼きたてのくるみパンを口にした瞬間、胸の奥...
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きんぴらごぼうの向こう側

「ごぼうは、土の香りが命なの」そう言って、佳乃(よしの)は今日も黙々ときんぴらごぼうを炒めていた。彼女は三十七歳。東京・下町にある小さな惣菜店「よし乃の台所」の店主だ。店の一角には、きんぴらごぼうだけを目当てに通う常連客たちの姿がある。ごぼ...
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干物日和

潮の香りがかすかに漂う、静かな港町。その一角に、小さな暖簾が揺れる店がある。白地に青い墨で「干物日和」と染められたその文字に、足を止める人は決して多くはないが、一度入った客の多くは、再びその扉をくぐる。店主は、山本涼(やまもと・りょう)、三...
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オリーブとローズマリーの午後

陽の光が斜めに差し込むキッチンの窓辺で、佐伯美咲は今日もフォカッチャの生地をこねていた。ベージュ色のリネンエプロンを身につけ、腕まくりをして、小麦粉とオリーブオイルの香りに包まれている。生地の手触りが手のひらに心地よく、リズムよく力を込めて...
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からっと屋 ようへい

中川陽平は、唐揚げが大好きだった。好き、という言葉では足りないほどに。昼休みの弁当に入っていれば思わずガッツポーズし、商店街の惣菜屋で揚げたての香りを嗅げば、財布の紐がゆるむ。居酒屋ではメニューに目もくれず「とりあえず唐揚げ」と注文するのが...
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のり塩の記憶

風間紘一(かざまこういち)は、小さな町工場に勤める四十五歳の独身男だ。朝は七時半に起き、八時には駅前のコンビニで缶コーヒーと菓子パン、そして必ず「のり塩味」のポテトチップスを買うのが習慣だった。誰に強制されたわけでもない。ただそれが、彼の「...
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タルトの時間

午後三時のカフェには、特別な静けさがあった。日差しがガラス越しに差し込み、木のテーブルに柔らかな影を落とす。その席に、今日も律子は座っていた。律子は三十五歳。都内の出版社で編集の仕事をしている。きっちりしたスーツに身を包み、効率と納期の世界...
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椿屋(つばきや)の灯り

古びた木造家屋の前に、小さな白い提灯が揺れている。そこには墨で「和食処 椿屋」と書かれていた。暖簾をくぐると、木の香りがふわりと鼻をくすぐる。カウンター七席と、小上がりがひとつ。決して大きくはないが、どこか懐かしく、落ち着く空間だ。この店を...
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透明なスープの向こう側

小山涼太(こやまりょうた)は、塩ラーメンを愛してやまない男だった。こってり濃厚な豚骨も、甘辛い味噌も悪くはない。だが、涼太の心を掴んで離さないのは、あの澄んだ黄金色のスープと、ほんのりとした塩のやさしさ。食べるたびに心が洗われるようで、身体...