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ロースハムの男

「違うんだ。これは“ロースハム”じゃない。ただの“ハム”だ。」薄く切られたピンク色の肉を前にして、男は眉間に深い皺を刻んだ。その名は岸川修一。五十を越えた独身男で、地元商店街では“ロースハムの岸川”として知られていた。人はなぜ、ロースハムに...
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かぼちゃ日和の午後に

「どうしてそんなに、かぼちゃが好きなんですか?」近所の子どもにそう聞かれて、僕は一瞬言葉に詰まった。理由なんて、考えたこともなかった。けれど、確かに僕はかぼちゃが好きだ。煮ても焼いても、蒸してもスープにしても、甘くて優しくて、どこか懐かしい...
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目玉焼きの朝

西山陽介(にしやま ようすけ)、35歳。独身。アパートの一室で静かに暮らしている。彼は派手な趣味もなく、社交的でもないが、一つだけ誰にも負けないほどの情熱を持っている。それは――目玉焼きだ。毎朝6時、陽介は目覚ましが鳴るよりも前に起きる。窓...
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もも飴と、ひとつぶの記憶

佐伯遥(さえきはるか)は、もも味の飴が大好きだった。それはもう、子供のころからの話で、ランドセルに忍ばせた小さな巾着袋には、必ず数粒のもも味のキャンディーが入っていた。甘くて、やさしい味。舐めると口いっぱいに春が広がるような気がした。「もも...
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なるとが主役の日

「なんでそこまで“なると”が好きなんだよ?」そう聞かれるのは、もう慣れっこだった。佐伯奏多(さえき・かなた)、高校一年生。彼は、ラーメン屋に行けばまず「なるとの量」を確認する。コンビニのカップ麺を選ぶ基準も、「なるとが入っているかどうか」。...
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お茶漬け日和

佐藤拓実(さとうたくみ)が初めてお茶漬けを美味しいと思ったのは、小学三年生の冬だった。母が風邪で寝込んだある日、冷蔵庫の中には半端な漬物と冷やご飯しかなかった。小柄な身体で台所に立ち、手探りで急須を使い、お湯を注ぎ、漬物を乗せて、食べた。味...
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小さなタコがくれたもの

篠原まことは、三十五歳の独身男性。製造工場で働く、どこにでもいるような普通のサラリーマンだ。ただ、一つだけ、彼には人にあまり言えない“好きなもの”があった。それは、タコさんウインナー。赤い皮に包まれた小さなウインナーを、下半分に切れ込みを入...
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焼きたての夢

古びた商店街の一角に、小さなトースト専門店がオープンしたのは、初夏の陽射しが柔らかく街を照らし始めた頃だった。看板には「Pan to(パント)」とだけ、シンプルに書かれていた。店主の名は、相沢志帆(あいざわ・しほ)、三十歳。大学を卒業後、大...
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いくらに命を賭けた男

北海道・根室。冬の海に吹きすさぶ風が、漁港の岸壁を打ちすえる。漁師・佐久間竜一(さくまりゅういち)、五十七歳。顔には無数の皺、手は凍てつく潮風に焼けてごつごつとしていた。「今年も、いくら漬ける時期がきたな」そう呟く彼の目は、港の向こうに浮か...
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ハスカップの約束

北海道の東の小さな町、厚真。春の終わりに雪が溶けると、町の空気は少しだけ甘くなる。地元の人々にしか分からない匂い――それは、山に自生するハスカップの芽吹きだった。中原沙織は、十年ぶりにこの町へ戻ってきた。母が亡くなって、実家をどうするか話し...