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エビフライになりたかったエビ

港町・潮見町には、ちょっと変わった老舗の洋食屋「マルヤ洋食店」があった。創業は昭和初期。店主の孫・マコトが三代目として厨房に立っていた。店の名物は、巨大なエビフライ。「まるでぬいぐるみみたい!」と子どもたちが喜ぶほどのサイズだった。ある日の...
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風のうどん

香川県観音寺市の山あいに、小さな製麺所があった。店の名は「風のうどん」。のれんが風に揺れ、誰にも見つけられないような場所に、ひっそりと佇んでいた。店主の名は結城遥(ゆうき・はるか)。三十代の半ば、腰まで届く黒髪を後ろで束ね、白い割烹着を身に...
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すだち日和

高橋和也がすだちと出会ったのは、失意の帰郷のさなかだった。東京の広告代理店で十年勤め上げたものの、組織の論理に疲れ果て、突然退職を決めた三十五歳の夏。気がつけば彼は、徳島の実家に戻っていた。実家といっても、すでに両親は亡く、手入れも行き届か...
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麻婆豆腐は人生の味

芳村(よしむら)透は、どこにでもいる平凡な会社員だ。朝はコーヒー、昼は弁当、夜はコンビニ。そんな彼にとって、唯一のこだわりが「麻婆豆腐」だった。初めて麻婆豆腐を口にしたのは、小学三年の頃。母親が風邪をひいて寝込んでいた日、父が台所に立ち、缶...
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あんドーナツの午後

商店街のはずれに、小さなベーカリーがある。「パン工房たんぽぽ」。派手な看板もないその店に、昼過ぎになると必ず現れる男がいた。名を北村誠二(きたむら・せいじ)、六十五歳。定年後、妻と二人で穏やかな日々を送る、少し無口な男である。彼がいつも注文...
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発酵という名の魔法

春の風がやわらかく街を撫でる頃、佳子(よしこ)はパン作りに夢中になっていた。最初のきっかけは、偶然だった。数か月前、会社を辞めた。十年勤めた事務職。人間関係も仕事も、壊れるほどではないが、じわじわと心を削られるような日々に終止符を打ったのだ...
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千切り日和

「今日も完璧だ」そう呟いて、佐藤律子はまな板の上のキャベツを見下ろした。薄く、均一に、風に舞うようにふんわりと削がれたその千切りは、もはや芸術だった。包丁の軌道をなぞるように、まるで音楽を奏でるかのように彼女はキャベツを刻む。律子は五十歳を...
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辛子の記憶

白井芳子(しらい・よしこ)は、幼いころから辛子が好きだった。黄色くて、鼻に抜けるような刺激のあるあの味が。小学校の給食で出たシュウマイに、申し訳程度に添えられていた小さな辛子の塊。友達が残したそれを集めては、一口にまとめて食べていた。鼻がツ...
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ごぼうの漬物と、あの頃の光

「これは、おばあちゃんの味だ」そう呟いて、清水遥(しみず・はるか)は、ひと切れのごぼうの漬物を口に運んだ。ポリッという歯ごたえとともに、醤油とみりん、そしてかすかに香る山椒の風味が広がる。子供のころから何度も味わった、懐かしい味。けれど、今...
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ジャージャー麺のある風景

昼下がりの商店街。古びた時計屋の隣に、赤いのれんがひらひらとはためいている。店の名前は「栄楽亭」。メニューの一番上には、堂々と「特製ジャージャー麺」の文字が書かれている。佐伯ひろし、五十五歳。商社勤めを早期退職してからは、週に三回、この「栄...