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心を運ぶエビフライ

商店街の一角に、昔ながらの定食屋「こはる亭」があった。暖簾をくぐると、ふわりと漂う油の香り。そこで働く青年・春斗は、祖母から店を受け継いで以来、毎日ひとつのメニューを心を込めて揚げていた――エビフライだ。こはる亭のエビフライは特別だった。驚...
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海へ帰る日

志摩半島の沖合。夕日に照らされ、海面は金色に揺れていた。海の底では、タカアシガニの“タケル”がゆっくりと長い脚を動かしていた。十本の脚を伸ばすたび、砂がふわりと舞い、静かな海の中に模様を描く。タケルは自分より小さな魚たちが近くを泳ぎ抜けるの...
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瓦そばの店で

山口県の小さな町、萩のはずれに、古びた茶店が一軒あった。看板には、煤けた文字で「川原庵」と書かれている。冬の終わり、観光客もまばらなその町で、湯気を立てる鉄瓶の音だけが静かに響いていた。店を切り盛りするのは、七十を越えた女性・澄江だった。夫...
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ぷちぷちの記憶

冷蔵庫の奥に、小さなガラス瓶がある。中には、つやつやと光る筋子が詰まっている。美咲はその瓶を見つめながら、ふと笑みをこぼした。——母の味だ。子どものころ、秋が深まると、台所にはいつも生筋子の匂いが漂っていた。母が白いエプロンをかけ、ぬるま湯...
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コーンポタージュのぬくもり

駅前のカフェ「ミレット」は、冬になると湯気で窓が白く曇る。外では吐く息が白く舞い、コートの襟を立てた人々が足早に通り過ぎていく。そのガラス越しに、真理は両手で包んだマグカップを見つめていた。中身は、コーンポタージュ。スープの表面を小さな泡が...
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焦らないでね

香澄(かすみ)は、昼下がりの静かなキッチンで、トマトを湯むきしていた。赤い皮がするりと剥けるたび、心の中のざらつきが少しずつ溶けていくような気がした。包丁の音、オリーブオイルの香り、そして静けさ。彼女の一日は、こうして始まる。トマトパスタは...
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アーモンド色の朝

朝の光がカーテンの隙間から差し込み、キッチンのステンレスをやわらかく照らす。川辺美月は、いつものように冷蔵庫を開けて、アーモンドミルクのパックを取り出した。とくん、とグラスに注ぐと、淡いベージュの液体が小さな波を立てて止まる。その香ばしい香...
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よもぎ色の約束

春の風が山の裾をなでるころ、里の道端にはやわらかな緑が顔を出す。よもぎ――。その香りを嗅ぐと、花の季節の訪れを思い出す。紗英は小さな籠を手に、祖母と並んで土手を歩いていた。祖母は腰をかがめ、指先で葉の裏を確かめる。「これがいいよ。ほら、柔ら...
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豆苗の窓辺

春の光が差し込む台所の窓辺に、ひと鉢の豆苗が置かれている。ガラス越しに揺れるその緑は、まるで小さな森のようだった。奈緒は、数週間前にスーパーで買った豆苗を食べたあと、残った根を水につけておいた。最初はただの気まぐれだった。けれど、数日でまた...
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レモンゼリーの午後

春の光が、窓辺のカーテンを透かしていた。由美は、静かにスプーンを手に取り、小さなガラスの器の中のレモンゼリーをすくった。黄色い光を閉じ込めたようなそのゼリーは、ひとくち口に入れると、甘酸っぱくて、どこか懐かしい味がした。毎週日曜日の午後、由...