商店街のはずれに、その店はある。
看板には、小さな文字で「奇跡、量り売り」と書かれている。
ガラス戸を開けると、鈴が澄んだ音を立てる。
棚には、瓶がずらりと並んでいた。
金色の粉、青く光る結晶、朝焼けみたいな液体。
どれも値札がついている。
私は、その中の一番小さな札を探していた。
――ひとさじ分の奇跡。
受験の合格でも、失われた命の復活でもない。
ただ、あの日、言えなかった「ありがとう」を、もう一度だけ言えるくらいの奇跡。
それだけでよかった。
けれど、棚の前に立つと、札は裏返っていた。
「ひとさじ分の奇跡は、売り切れですが」
奥から出てきた店主が、静かに言った。
年齢のわからない人だった。
白いエプロンに、星屑みたいな粉がついている。
「次の入荷は、いつですか」
「未定です。最近は、皆さん大さじばかり求めますから」
棚の上段には「人生逆転・特盛」「最愛再会・三日間保証」といった瓶が並んでいる。
どれも重たそうで、値段も高い。
「小さな奇跡は、あまり作られないんですか」
「小さいほうが、作るのは難しい」
店主は、空になった小瓶を指で弾いた。
澄んだ音が鳴る。
「ひとさじ分の奇跡は、願いと後悔がちょうど同じ重さでないと、固まりません。多すぎても、少なすぎても、ただの期待になってしまう」
私は黙った。願いはある。
でも、後悔の重さを、私はきちんと量れただろうか。
「代わりに、こちらはいかがです」
差し出されたのは、透明な瓶だった。
中身は空に見える。
「これは?」
「未完成の奇跡です。まだ形を持たない。持ち帰って、育てるんです」
「育てる?」
「毎日、思い出すこと。逃げずに向き合うこと。そうすれば、いつか自然にひとさじ分になる」
保証はありません、と店主は付け加えた。
私は瓶を受け取った。
軽い。
拍子抜けするほどに。
帰り道、夕焼けが商店街を染めていた。
シャッターの降りた店、古びたベンチ、遠くの踏切の音。
あの日と、少しも変わらない景色。
あの日、私は祖母の病室で、うまく笑えなかった。
強がって、「また来るね」とだけ言って帰った。
次の日、祖母は目を覚まさなかった。
瓶を胸に抱え、私は立ち止まる。
「ありがとう」
声に出してみる。
風に紛れて消えていく。
何も起こらない。
それでも、もう一度。
「ありがとう。ごめんね」
涙がこぼれた。
瓶の中で、かすかに光が揺れた気がした。
その日から、私は毎晩、祖母の話をすることにした。
好きだった花のこと。
焦げやすい卵焼きのこと。
笑い皺の深さのこと。
瓶は、少しずつ重くなっていった。
ある夜、ふと気づく。
私は、あの日言えなかった言葉を、もう何度も口にしている。
祖母はもういない。
でも、言葉は確かに、ここにある。
瓶の中には、淡い光の粒がひとつ、静かに浮かんでいた。
次の朝、私は店を訪れた。
「どうやら、育ちましたね」
店主は瓶を覗き込み、満足そうにうなずいた。
「これは、もう売り物ではありません。あなたの奇跡です」
「でも、時間は戻らなかった」
「戻らない奇跡も、あります」
店主は空になった棚を見やる。
「ひとさじ分の奇跡は、売り切れですが――自分で作るぶんには、在庫は無限です」
店を出ると、朝の光がまぶしかった。
私は瓶を開けた。
光は溶けるように胸に染みこんだ。
何も変わらない世界が、ほんの少しだけ、やわらかくなる。
それが、私にとっての、ひとさじ分だった。


