その猫は、夕暮れどきにだけ現れた。
路地裏の壁にもたれ、わたしが仕事帰りの疲れをやり過ごしていると、足もとに柔らかな影が落ちる。
見上げると、灰色の毛並みに金色の目をした猫が、こちらをじっと見ていた。
首輪はない。
けれど、どこか人慣れした顔つきだった。
最初の夜、猫はわたしの膝に飛び乗った。
驚くより先に、胸の奥がふっと軽くなる。
撫でると、指先からこぼれるように、今日の嫌な出来事が遠ざかっていった。
上司の叱責も、満員電車の息苦しさも、まるで薄い霧のように溶けていく。
猫が降りたあと、わたしは妙な違和感を覚えた。
腕時計を見ると、二十分も経っている。
ほんの数秒、撫でていただけのはずなのに。
次の夜も、その次の夜も、猫は現れた。
わたしは抗えなかった。
猫を撫でると、胸を締めつけていた焦りや後悔が、音もなく削り取られていく。
代わりに、なにもない静けさが残った。
その静けさは心地よい。
けれど、日を追うごとに、わたしの部屋には奇妙な空白が増えていった。
机に置いたはずの書類が終わっている。
書いた覚えのないメールが送信済みになっている。
友人から「昨日はありがとう」とメッセージが届く。
けれど、わたしは昨日の夜を思い出せない。
猫は、時間を盗んでいたのだ。
盗むのは、ただの時間じゃない。
つらくて、苦しくて、目を背けたかった時間。
わたしが「いらない」と心のどこかで思った瞬間を、猫はすくい上げて持ち去る。
そのかわりに、空白を残す。
ある夜、わたしは猫を抱き上げて問いかけた。
「返して。たとえつらくても、あれはわたしの時間だよ」
猫は金色の目を細め、喉を鳴らした。
その音は、不思議と古い時計の針が戻るような響きを帯びていた。
次の瞬間、胸の奥に重たいものが流れ込む。
上司に言い返せなかった悔しさ。
友人とすれ違った言葉。
終電を逃し、夜風に吹かれながら泣いたこと。
全部、いっせいに戻ってきた。
膝から猫が消えていることに気づいたのは、そのあとだった。
路地裏には、もう灰色の影はない。
ただ、遠くで誰かの飼い猫が鳴く声がする。
時間は、静かに進んでいる。
それから、猫は現れない。
けれど、ときどき夕暮れの窓に、金色の光が映る。
疲れ果てた日ほど、わたしは思う。
あの猫がまた来てくれたら、どれだけ楽だろう、と。
それでも、わたしは知っている。
痛みも、後悔も、焦りも、すべてがわたしを形づくっていることを。
盗まれなかった時間だけが、わたしの足もとを支えていることを。
だから今日も、夕暮れの路地をまっすぐ歩く。
もしも灰色の影が現れても、きっとわたしは撫でないだろう。
そのかわり、そっと言うのだ。
「もう盗まなくていいよ。これは、わたしの時間だから」

