その電話は、いつも午前二時十七分に鳴る。
わたしの部屋の壁時計は、秒針の音だけがやけに大きい。
眠れない夜にだけ、決まってコールが響く。
非通知。
三回きっかり鳴って、四回目の前に出ると、かすれた声が言う。
「もしもし、そこは——まだ、間に合いますか」
最初はいたずらだと思った。
けれど相手は、わたしの名前を知っていた。
しかも、明日の予定まで。
「明日、駅前の横断歩道で立ち止まらないで」
言われた通り、翌日わたしは足を止めなかった。
すると、背後で自転車が派手に転び、わたしのいた場所に荷物が散らばった。
立ち止まっていたら、ぶつかっていたのはわたしだった。
電話はそれきりではなかった。
「冷蔵庫の牛乳、飲まないで」
「青い傘は持っていかないで」
「今日の午後、笑わないで」
どれも小さなことばかりだ。
けれど従うたびに、何かがわずかにずれていく感覚があった。世界の縫い目が、針で刺し直されているみたいに。
「あなたは誰ですか」
ある夜、わたしは問いかけた。沈黙のあと、相手は息を吸う音を立てる。
「……あなたです」
喉の奥がひやりとした。
「十年後の、あなた」
電話越しの声は、今よりも低く、疲れていた。
けれど確かに、言葉の癖が似ている。
語尾が少しだけ上がるところも。
「どうして、わたしに」
「やり直しているから」
十年後のわたしは言う。
取り返しのつかない選択をしてしまった、と。
誰かを失い、何かを壊し、戻れない場所まで行ってしまった、と。
「だから、少しずつ変えている。大きなことは変えられない。時間は、そんなに優しくない。でも、あなたが立ち止まらなければ、笑わなければ、飲まなければ——わずかな誤差が積み重なって、違う未来になるかもしれない」
「誰を、失うんですか」
長い沈黙。
受話器の向こうで、遠くのサイレンの音がした。
「それは言えない。言えば、その人をあなたが避けてしまうから」
電話はそこで切れた。
それから、わたしは迷いながらも従い続けた。
好きだったカフェに行くのをやめ、気になっていた人からの誘いを断り、偶然の再会を避けた。
未来を変えるために。
ある晩、いつもの時刻に電話が鳴らなかった。
代わりに、メッセージが一通だけ届いていた。
『今夜で最後です』
慌ててかけ直す。
呼び出し音のあと、すぐに繋がった。
「どういうこと」
「十分にずれたから」
未来のわたしの声は、少しだけ軽い。
「もう、あの未来には戻らない。あなたは、別の道にいる」
「失うはずだった人は?」
「……まだ、あなたの隣にいるはず」
胸が締めつけられる。
わたしは、最近距離を置いていたあの人の顔を思い浮かべた。
避け続けていたのは、失うのが怖かったからかもしれない。
「ねえ、未来のわたし。あなたは、幸せ?」
問いかけると、受話器の向こうで小さく笑う気配がした。
「わからない。でも、あなたが今から選ぶ未来のほうが、きっと、まし」
通話は途切れた。
それきり、午前二時十七分に電話が鳴ることはない。
翌日、わたしは青い傘を持って家を出た。
冷蔵庫の牛乳を飲み、駅前の横断歩道で少しだけ立ち止まる。
そして、避けていたその人に、自分から声をかけた。
未来は、もう電話をかけてこない。
代わりに、いまこの瞬間が、かすかな呼び出し音のように鳴っている。
出るかどうかは、わたし次第だ。


