その人は、明日を先に笑う人だった。
まだ起きていない出来事の結末を知っているわけでも、未来が見えるわけでもない。
ただ、明日について話すときだけ、少しだけ早く笑う。
今日の話題では笑わないのに、明日の話になると、まるでもう一度それを思い出しているかのように、柔らかく口元をゆるめる。
「明日は、たぶん雨が降るよ」
そう言って、その人は微笑った。
空は晴れていて、雲ひとつない。
私は首をかしげたけれど、否定はしなかった。
その人の笑顔は、いつも結論のように静かだった。
私たちは同じバス停で毎朝顔を合わせた。
話すことは多くない。
名前も知らない。
ただ、彼――あるいは彼女は、明日のことだけを先に笑う人だった。
「明日、このバスは遅れる」
「明日、あの店は閉まってる」
「明日、君は少しだけ泣く」
どれも断定ではなく、予告でもない。
ただのつぶやきに近い。
それなのに、奇妙なことに、翌日になるとそれらはほとんど外れなかった。
雨は降り、バスは遅れ、店はシャッターを下ろしていた。
私は偶然だと思おうとしたけれど、偶然にしては重なりすぎていた。
「未来が見えるんですか」
ある日、思い切って聞いた。
その人は首を振った。
「見えないよ。ただ、先に笑ってるだけ」
「どうして?」
「明日が来たときに、もう笑えなくなるから」
その言葉は、風に混じって消えそうだった。
問い返そうとしたけれど、ちょうどバスが来てしまい、会話はそこで途切れた。
それから私は気づいた。
今日について話すとき、その人は決して笑わない。
良いことがあっても、悪いことがあっても、表情は変わらない。
今日はまだ未確定で、感情を置くには早すぎるのだと言わんばかりに。
ある朝、私は言った。
「明日、あなたは笑いますか」
その人は少しだけ驚いた顔をしてから、困ったように微笑った。
「明日は……たぶん、笑わない」
その翌日、バス停にその人はいなかった。
雨も降らず、バスは時間通りに来た。
世界は何事もなかったかのように、整然と進んでいた。
私は初めて、明日を先に笑わなかった。
数日後、掲示板に小さな張り紙が出た。
事故の知らせだった。
詳細は書かれていない。
ただ、昨日の日付だけが淡々と記されていた。
そのとき、ようやくわかった。
その人は未来を知っていたのではない。
明日が「もう一度来ない日」だと知っているときだけ、先に笑っていたのだ。
明日が、最後の明日になる前に。
感情が追いつかなくなる前に。
それから私は、ときどき明日のことを考える。
何も特別な予定のない明日。
きっと平凡で、取り立てて語ることのない一日。
それでも、ほんの一瞬だけ、先に笑ってみる。
誰にも気づかれないくらい、小さく。
明日を迎えるために。
今日を、置いていかないために。


