その余白には、名前がなかった。
ページの中央でも、端でもない。
文章と文章のあいだに残された、ほんの指一本分の空白。
誰もそこを読もうとしないし、そこに意味があるとも思わない。
けれど私は、その余白がひどく気になっていた。
古い記録庫で働き始めて三年目の冬、私は毎日、過去の出来事を文字に起こす仕事をしていた。
世界では、起きたことはすべて記録され、保存されることになっている。
感情も、選択も、後悔も。
けれど不思議なことに、どんなに正確な記録の中にも、必ず説明のつかない空白が残った。
それは「欠落」ではなかった。
削除された痕跡も、破損もない。
ただ最初から、そこだけ書かれていないようだった。
ある日、私は一冊の記録書で、その余白に小さな違和感を覚えた。
何度も読み返した文章の途中で、視線がふと止まる。
何も書かれていないはずなのに、そこだけ空気が違う気がした。
耳鳴りのような静けさ。
言葉になる直前で、立ち止まった何か。
指でなぞると、冷たさが伝わった。
紙なのに、まるで夜明け前の空気のように。
その瞬間、思い出した。
自分が何を忘れているのかを。
昔、確かに誰かと約束をした。
名前も顔も思い出せない相手。
でも、その人と一緒に「言葉にしないまま残すもの」について話した記憶だけが、かろうじて残っていた。
言葉にすれば壊れてしまう感情。
記録すれば平らになってしまう瞬間。
だから、あえて書かない。
あえて空けておく。
余白は、そのためにあった。
私は気づいてしまったのだ。
この世界がどれほど多くの「書かれなかった選択」でできているのかを。
誰かを呼び止めなかった夜。
言わなかったありがとう。
選ばなかった未来。
そのすべてが、名前のない余白として積み重なっている。
記録庫を出る頃、外は雪だった。
白く降り積もるそれは、世界を覆い隠しながら、何も消さない。
足跡も、迷いも、その下にちゃんと残していく。
私は最後に、あの余白に名前を与えようとして、やめた。
名前をつけた瞬間、それはただの言葉になってしまうから。
余白は余白のままでいい。
誰にも読まれなくても、確かにそこに在り続けるために。
ページを閉じると、静かな温度だけが手のひらに残っていた。
まるで、言葉にならなかった誰かの気持ちが、まだそこに息をしているように。

