世界には、すべてを記録する装置があった。
街角の会話も、すれ違いの視線も、心拍の揺れさえも、秒単位で保存される。
人々はそれを「完全な記憶」と呼び、失われるものはもうないと信じていた。
私の仕事は、その記録を管理することだった。
無数の瞬間が収められたサーバー室で、私は毎日、他人の過去を整頓していた。
笑顔、後悔、怒り、別れ。
どれも等しくデータで、等しく正確だった。
ただ一箇所だけ、空白があった。
それは七年前の、ある夏の午後。
時刻も場所も特定できるのに、その瞬間だけが、なぜか「未記録」と表示されている。
規則では、空白は存在してはならない。
けれど何度確認しても、そこには何もなかった。
削除された痕跡も、破損の形跡もない。
ただ、最初から存在しなかったかのように。
私はその時間に、奇妙な既視感を覚えていた。
胸の奥が、理由もなく痛む。
調査を進めるうちに、その瞬間の当事者が、私自身であることに気づいた。
七年前の夏、私は小さな駅で、ひとりの人と待ち合わせをしていた。
名前も顔も、記録には残っていない。
でも、確かに知っている気がした。
風の匂い、蝉の声、少し遅れてくる足音。
その人は、笑っていたと思う。
「忘れられてもいい瞬間があってもいい」と、誰かが言った記憶がある。
その言葉を最後に、記録は途切れていた。
なぜ記録されなかったのか。
装置の故障でも、意図的な消去でもない。
まるで世界そのものが、その瞬間を保存することを拒んだかのようだった。
私はふと思った。
もしあの瞬間が記録されていたら、今の私はそれを何度も再生し、意味を探し、名前をつけようとしただろう。
けれど、記録されなかったからこそ、それは今も胸の奥で、曖昧なまま生き続けている。
完全に思い出せない。
完全に忘れられもしない。
それは、誰にも管理されない、私だけの時間だった。
サーバー室の灯りの下で、私は空白をそのままにしておくことにした。
世界が記録しなかった瞬間を、無理に埋める必要はない。
記録されなかったからこそ、その瞬間は、今も静かに呼吸している。
私の中で、名前のないまま。


