存在しない昨日

不思議

町の図書館には、貸し出しも返却もされない棚が一列だけあった。
背表紙には日付が書かれているが、どれも「昨日」とだけ記されている。
正確な年月日はなく、昨日という言葉だけが何百冊も並んでいた。

私はそこで働いて三年になるが、その棚について説明を受けたことは一度もない。
先輩も司書長も、視線が自然にそこを避ける。
まるで最初から存在しないかのように。

ある雨の午後、停電で館内が薄暗くなったとき、私は誤ってその棚に触れてしまった。
すると一冊が、静かに床へ落ちた。
拾い上げると、紙は少し温かく、まだ乾ききっていないインクの匂いがした。

ページを開くと、そこには私の字で文章が書かれていた。

――昨日、私はあの人に会いに行った。

心臓が一拍、遅れた。
私は昨日、誰にも会っていない。
家と図書館を往復し、夕食を作り、早めに眠っただけだ。
記憶は確かだった。

けれど本の中の私は、別の昨日を生きていた。
駅前のカフェで、もう会えないはずの人と向かい合い、言えなかった言葉を口にし、笑って、少し泣いて、別れをちゃんとやり直している。

読み進めるほど、胸が締めつけられた。
それは、私がずっと「こうだったらよかった」と思い続けてきた昨日だった。

最後のページには、短い一文だけが残っていた。

――この昨日は、誰にも観測されなかった。

本を閉じた瞬間、遠くで電気が復旧する音がした。
明かりが戻ると、手の中の本は消えていた。
棚にも隙間はなく、最初から何も落ちていなかったように見える。

その夜、私は不思議な安心感とともに眠った。
失われたと思っていた昨日が、どこかで確かに存在していたと知れたからだ。
たとえそれが、世界に記録されない、存在しない昨日であっても。

翌朝、図書館に行くと、あの棚に一冊増えているのに気づいた。
背表紙には、相変わらず「昨日」とだけ書かれている。

私はそれに触れなかった。
存在しない昨日は、もう私の中で静かに完結していたから。

そして今日もまた、誰にも観測されない昨日が、ひとつ増えていく。