その地図は、戻れない場所だけを描いていた。
紙は少し黄ばんでいて、折り目の角が柔らかく丸くなっている。
新品ではないのに、書き込みは一切なかった。
道の名前も、凡例も、縮尺さえない。
ただ、不思議な線と、ところどころに小さな印が浮かんでいるだけだった。
私はそれを、町外れの古本屋で見つけた。
店主は値段を告げる代わりに、静かにこう言った。
「一度行った場所は、二度と載りませんよ」
意味が分からないまま、私は地図を買った。
家に帰り、机の上に広げると、地図の中央に小さな印が一つ増えているのに気づいた。
それは、私の住んでいる町の形に、よく似ていた。
試しに翌日、地図を持って歩き出すと、不思議なことに線が少しずつはっきりしていく。
地図は、進むたびに“行き先”を描き足しているようだった。
最初に辿り着いたのは、昔通っていた小学校の裏庭だった。
今はフェンスで囲まれ、立ち入り禁止になっているはずの場所だ。
けれど地図の示す道を進むと、フェンスはなく、夕焼けの中でブランコが静かに揺れていた。
そこには、かつての私がいた。
ランドセルを背負い、何かを言いかけて口をつぐんでいる。
声をかけようとした瞬間、地図がひとりでに畳まれ、風が吹いた。
次に開いたとき、裏庭の印は消えていた。
戻れない場所。
地図の意味が、少しずつ分かってきた。
それから私は、地図の示す場所をいくつも訪れた。
言えなかった別れの言葉が落ちている駅のホーム。
返事を待たないまま終わった手紙の部屋。
笑い合ったはずなのに、最後は沈黙しか残らなかった喫茶店の席。
どの場所も、確かに存在していた。
けれど、そこから戻ると、地図から印は消え、二度と同じ道は現れなかった。
ある夜、地図の端に見覚えのある印が現れた。
それは、かつて誰かと「また来よう」と約束した場所だった。
約束は守られず、その人の名前さえ、今でははっきり思い出せない。
私は迷った。
そこへ行けば、もう戻れない何かが増える気がしたからだ。
それでも、地図は静かに示していた。
翌朝、私は歩き出した。
辿り着いた場所は、何もない空き地だった。
ただ風が吹き、草が揺れている。
その真ん中に、確かに“不在”だけがあった。
失われた時間も、言葉も、誰かのぬくもりも、すべてがそこに集まっているようだった。
私は何も拾わず、何も言わなかった。
帰り道、地図を開くと、最後の印が消えていた。
白紙になった地図は、ただの古い紙に戻っていた。
それでも、私は知っている。
戻らない場所は、消えたのではない。
地図から降りただけだ。
そしてそれらは、今も私の中で、静かに道をつくり続けている。


