町の名簿から、ある日ひとつの名前が消えた。
役所の掲示板でも、学校の出席簿でも、古いアルバムの写真の裏でも、その名前だけが不自然に空白になっていた。
人々は不思議に思うこともなく、「最初からなかったのだろう」と納得してしまう。
名前を失うことは、その人が存在しなかったことになる——この町では、それが当たり前だった。
けれど私だけは、その名前を忘れられなかった。
理由はわからない。
ただ、胸の奥に小さな石のように引っかかっている。
呼べば何かが始まる気がして、同時に、呼んではいけない気もした。
だから私は、その名前を声に出さず、ノートの隅にだけ書き続けた。
ある日、図書館の奥で、背表紙のない本を見つけた。
ページをめくると、文章は途中で途切れ、登場人物の名前だけが黒く塗りつぶされている。
その下に、かすれた文字でこう書かれていた。
――名前を覚えている者がいる限り、私は消えない。
その瞬間、胸の石が音を立てて割れた。
思い出したのだ。
夕暮れの帰り道、一緒に影を踏んだこと。
雨の日に貸してもらった透明な傘。
笑うと少しだけ左に首を傾ける癖。
私は図書館を飛び出し、誰もいない公園で、ついにその名前を口にした。
風が止まり、世界が一拍遅れて呼吸を再開する。
ブランコがきしみ、ベンチの影が濃くなり、そこに、懐かしい後ろ姿が現れた。
「呼んでくれたんだね」
振り返ったその人は、少し困ったように笑った。
けれど輪郭はすでに薄く、夕暮れに溶けかけている。
「長くは無理なんだ。名前を覚えていられるのは、一人だけだから」
私はうなずいた。
忘れない代わりに、世界から少しずつ取り残されていくことも、きっと理解していた。
別れ際、その人は言った。
「もし君がいつか、名前を手放したくなったら——そのときは、ちゃんと生きてきた証だよ」
姿が消えたあと、公園にはいつも通りの夕方が戻った。
名簿の空白も、アルバムの欠落も、そのままだ。
それでも私は今日もノートを開く。
もう書かれない名前の代わりに、確かにあった時間を、丁寧に書き留めるために。
忘れられなかった名前は、私の中で、静かに生き続けている。


