世界の端には、古いベンチがひとつだけ置かれている。
地図には載っていないが、確かにそこは世界の端だった。
海でも崖でもなく、ただ地面がそこで終わっていて、その先は薄い光の霧に溶けている。
踏み出そうとすれば足は宙に浮き、引き返すこともできる。
不思議と恐怖はなかった。
「ここで待ち合わせ」と書かれた手紙を受け取ったのは、三年前だ。
差出人の名前はなく、日付だけが未来を指していた。
最初は冗談だと思ったが、その日が近づくにつれて、忘れかけていた約束の感触が胸の奥で脈打ち始めた。
世界の端に着くと、ベンチにはすでに誰かが座っていた。
背中しか見えないが、風に揺れる髪の癖が懐かしい。
「遅かったね」
振り向いたその人は、昔とほとんど変わっていなかった。
ただ、目だけが少し遠くを見ているようだった。
「まだ、来てくれると思ってた」
「思ってた、じゃなくて、待ってたんだよ」
二人で並んで座る。
足元のない空間から、かすかな潮の匂いが上がってくる。
「ここは、行かなかった未来が集まる場所なんだ」
その人は霧を指差した。
「選ばれなかった道、言えなかった言葉、続かなかった関係。その端っこが、ここ」
思い当たる節は多すぎた。
あのとき引き止めなかったこと。
別れを曖昧にしたまま時間だけが過ぎたこと。
「じゃあ、君は……」
「うん。君と一緒に来なかった未来の、私」
胸が少しだけ痛んだ。
でも、不思議と後悔はなかった。
ここに来たからこそ、ようやく形になる気持ちがあった。
「今日は、ちゃんと待ち合わせできたね」
「うん。世界の端で」
霧が少し濃くなり、ベンチが軋む。
ここにいられる時間は長くないらしい。
「戻ったら、どうする?」
「前に進むよ。今度は、ちゃんと選ぶ」
その人は微笑んだ。
風が強くなり、霧が二人の間をすり抜ける。
「それでいい。待ち合わせは、果たされたから」
次の瞬間、視界が白くなった。
気づけば、私は元の世界に立っていた。
手の中には、もう何も残っていない。
ただ、胸の奥に小さな灯りがともっている。
世界の端での待ち合わせは、確かに存在した。
そしてそれは、終わりではなく、静かな始まりだった。

