街のはずれに、その銀行はあった。
看板には小さく「記憶銀行」とだけ書かれている。
お金は一切扱わない。
その代わり、忘れたい記憶を預かる——それがこの銀行の仕事だった。
重い扉を押して中へ入ると、静かな空気が満ちている。
金庫室の代わりに並ぶのは無数の引き出し。
木製の札には「初恋」「後悔」「約束」「喪失」といった言葉が刻まれていた。
受付に座るのは、年齢のわからない行員だ。
彼女はいつも同じ穏やかな声で言う。
「お預かりする前に、条件があります」
条件は一つだけ。
預けた記憶は、二度と取り戻せないかもしれない。
それでもいいか、と。
ある日、青年がやって来た。
震える手で差し出したのは、白い封筒。
中には、最愛の人を失った夜の記憶が詰まっているという。
彼は言った。
「忘れないと、生きられないんです」。
行員はうなずき、封筒を受け取った。
引き出しにしまう直前、彼女はそっと問いかける。
「忘れることで、何を守りたいのですか」
青年は答えられなかった。ただ涙が落ちた。
記憶銀行には、奇妙な噂がある。
預けられた記憶は、ただ眠るだけではない。
ときどき、夜になると引き出しが微かに鳴り、誰かの夢へと滲み出すのだという。
後悔は誰かの背中を押し、約束は見知らぬ人の手を温める。
忘れられたはずの記憶は、形を変えて世界を巡る。
行員はそれを知っていた。
彼女自身、ここに最初の記憶を預けた人間だったからだ。
自分の名前も、来歴も、すべて引き出しの奥に眠っている。
忘れたからこそ、他人の痛みに静かに寄り添える。
そう信じて、彼女は今日も記憶を受け取る。
数年後、あの青年が再び現れた。
表情は穏やかで、手には花束がある。
「思い出せないはずなのに、時々、誰かを大切にした感覚だけが残るんです」。
行員は微笑んだ。
それで十分だ、と。
扉が閉まると、引き出しが一つ、やさしく鳴った。
忘れたい記憶は消えない。
ただ、誰かの明日を照らすために、預け直されるだけなのだ。


