その町では、年に一度だけ、返事をしてはいけないチャイムが鳴る夜があった。
日にちは決まっていない。
風がやけに生ぬるく、時計の針がいつもより重く進む夜――そういう前触れだけが、古くから語り継がれていた。
僕がそれを初めて経験したのは、祖母の家に泊まった夜だった。
停電で部屋は薄暗く、蝋燭の炎が壁に揺れる影を作っている。
祖母はいつもより早く戸締まりを済ませ、玄関の前に小さな鈴を置いた。
「今夜、どんな音がしても、返事をしちゃいけないよ」そう言って、祖母は念を押した。
真夜中を少し過ぎたころ、チャイムが鳴った。
澄んだ音で、いつもの来客用のものとまったく同じだ。
思わず体が跳ねる。
二度、三度と、律儀に間を置いて鳴る。
誰かが立っている。
そう思うだけで、喉がひくりと鳴った。
「誰ですか」と言いたくなる衝動を、僕は必死に飲み込んだ。
祖母の言葉が頭に浮かぶ。
返事をしてはいけない。
理由は聞かされていない。
ただ、してはいけないのだ。
チャイムはやがて止み、代わりに、玄関の向こうから小さな声がした。
「開いてるよ。寒いでしょう」それは、祖母の声にそっくりだった。
胸が締めつけられる。
祖母は隣の部屋で眠っている。
息遣いも聞こえるのに。
床に置いた鈴が、かすかに鳴った。
祖母が教えてくれた合図だ。鈴が鳴るとき、外のものは嘘をつく。
僕は目を閉じ、耳を塞ぎ、何も答えなかった。
しばらくして、すべての音が消えた。
風の音だけが戻り、遠くで犬が吠えた。
祖母は朝になってから、静かに話してくれた。
あの夜に返事をすると、声を持っていかれること。
声を失った人は、やがて名前も忘れ、町の外れで誰かの声を真似して生きること。
「だから、あのチャイムは“返事を探して”鳴るんだよ」
夜が明け、玄関の外を見ると、足跡が一つだけ残っていた。
行き先はなく、途中で消えている。
僕は自分の声が、ちゃんと喉にあることを確かめるように、小さく息を吐いた。
それ以来、夜にチャイムが鳴ると、僕は思い出す。
答えなかったことが、誰かを遠ざけ、同時に、自分を守った夜のことを。
返事をしない勇気が、静かに家を包んだ、あの生ぬるい風の夜を。


