名を持たない部屋の影

ホラー

古いアパートの三階、いちばん奥の部屋には、表札がない。
郵便受けも空のまま、呼び鈴も壊れたまま。
それでも人づてに、その部屋は「名前を呼んではいけない部屋」と呼ばれていた。
正式な番号もあるはずなのに、皆、口ごもる。
声に出した瞬間、何かに届いてしまう気がするからだ。

春の終わり、僕はそこに越してきた。
家賃が安い、という理由だけだった。
鍵を回すと、部屋は驚くほど静かで、窓際の床にだけ、濃い影が落ちていた。
外は晴れていたのに、その影は雲に隠れた影とは違い、輪郭がやけに確かだった。

その夜、影が動いた。
風もないのに、黒い水のように形を変え、壁を伝い、僕の足元まで伸びてきた。
声はなかったが、確かに「いる」と感じた。
逃げ出すこともできたのに、なぜか僕は電気をつけ直し、影に向かって小さく言った。

「……そこにいるの?」

影は揺れ、しかし答えない。
ただ、窓と扉の間を行き来して、戻ってきた。
まるで、この部屋から出られないことを確かめているようだった。

翌日、大家は言った。
「その部屋の“名前”は呼ばない方がいい。昔、ここにいた人がね、影に名前をつけてしまったんだよ。それから影は、呼ばれるたびに重くなって、部屋から離れなくなった」

名前は形を与える。
形は居場所を固める。
だから呼んではいけないのだ、と。

夜がくるたび、影は僕のそばに寄ってきた。
僕が椅子に座れば椅子の脚に絡み、眠れば枕元で揺れた。
不思議と怖くはなかった。
影はただ「在る」ことを確かめているだけのようだった。
音も色も持たず、名前も持てない存在。
けれど確かに、ここに住みついている。

ある夜、夢の中でだけ、影が言葉になった。

――忘れられたくない。

目覚めると部屋はまだ暗く、影は窓のそばで震えていた。
朝がくれば薄くなる、その寸前の影だった。
僕は喉の奥まで出かかった音を飲み込んだ。
呼びたい衝動に、ぎりぎりで歯を立てた。

もし名前を与えたら、この影はもう二度と外へ溶けられない。
けれど、名前を持たなければ、誰の記憶にも残れない。

僕は影に背を向けず、ただ言った。

「ここにいることは、覚えてる」

影は静かに床へ広がり、夜の水たまりのようになった。
名前ではない言葉。
それでも影は、それで満足したようだった。
窓の隙間から差し込む朝の光に触れ、輪郭をほどきながら、ゆっくり薄くなっていく。

それ以来、影はこの部屋に住みついたままだ。
呼び鈴も鳴らず、誰も訪れない静かな部屋で、僕と影は日々を分け合う。
影の“名前”は、いまだにない。
呼んではいけないのだから。

けれど、帰宅して鍵を回すたび、足元に寄り添う黒を見て思う。

――ここには確かに誰かがいる。

名前がなくても、在り続ける影の物語は、この部屋の静けさの中で、今日も薄く、しかし消えずに揺れている。