世界の端は、だれも見たことがない場所だと言われている。
けれどリラは、そこがたしかに存在することを知っていた。
なぜなら、風にまぎれて落ちてくる“言葉のかけら”を、何度も拾ったことがあるからだ。
リラの村は、谷と雲の間にひっそりと挟まれている。
朝になると霧が立ちのぼり、夜になると星が井戸の底に落ちていくような静かな場所だ。
人々は皆、淡々と暮らしているが、どこか話し言葉が少なかった。
伝えたいことを胸にしまったまま、言葉にする前に風にさらわれてしまうのだと、リラは感じていた。
ある日、谷を渡る強い風が吹いた。
その風の中に、ふいに小さな声が混じった。
――たすけて。
振り向いても、誰もいない。
ただ草が震えているだけだった。
足もとに、光る粒が落ちていた。
指でつまむと、それは温かく、透明で、耳を近づけると微かな響きを持っていた。
“たすけて”という言葉の欠片だった。
リラはそれを大切に布に包み、胸ポケットにしまった。
その瞬間、胸の奥で何かが決まった。
世界の端へ行ってみよう。
落ちてしまった言葉たちを、もう一度持ち主のもとへ返すために。
村の外れ、谷にかかる細い吊り橋を渡り、雲の影を踏みながら、リラは歩いた。
道はやがて、色を失った。
草も木も、輪郭だけになり、世界がしずかに薄くなっていく。
音が遠のき、息づかいだけがはっきり聞こえる。
そして、そこに境目があった。
線でも壁でもない。
ただ、世界が終わり、白い余白が広がる場所。
リラは一歩踏み出した。
足元に、無数の欠片が転がっていた。
きらきらと光りながら、かすれた声でささやいている。
――ごめんね。
――いかないで。
――ありがとう。
――だいじょうぶ。
――言えなかった。
それは、だれかが胸の奥でつぶやき、口に出す前に落としてしまった言葉たちだった。
うれしさも、悔しさも、祈りも、こぼれたまま冷えていた。
リラはひざまずき、一つずつ手のひらに集めた。
言葉は触れると少し温まり、震えを止めた。
どこへ返せばいいのか、彼女にはまだわからなかった。
それでも、放っておけなかった。
そのとき、白い余白の向こうから声がした。
「拾う子は久しぶりだね」
姿のはっきりしない影が、やわらかく揺れて立っていた。
顔も輪郭も曖昧なのに、目だけがこちらを見つめているように感じられた。
「言葉は重い。持てば、君の心も引きずられる。それでも拾うのかい?」
リラは胸の布包みを握りしめた。
そこには“たすけて”が眠っている。
「落ちたままなのは、もっと重いと思うから」
影は少し笑ったように揺れ、手を差し出した。
瞬間、風が巻き起こり、欠片たちが宙へ舞い上がった。
星のようにまたたきながら、糸となって遠くのどこかへ伸びていく。
リラの胸に、あたたかい感覚が広がった。
言葉たちは、持ち主の心へ静かに帰っていくのだとわかった。
言えなかった言葉としてではなく、なぜか涙になったり、微笑みになったり、そっと背中を押す力になったりして。
最後に、一つだけ残っていた。“たすけて”。
それは他の欠片より重く、小さく、震えていた。
リラはそれを自分の胸に押し当てた。
「大丈夫。いつか、言えるよ」
その瞬間、それは光にほどけ、リラの中に溶けていった。
自分自身の声でもあったのだと気づく。
弱さも、救いを求める気持ちも、遠くの誰かだけのものではない。
世界の端の白は、すこしずつ色づきはじめた。
境目が消え、道が戻ってくる。
リラは振り返り、歩き出した。
村へ帰るために。
そして、これからも風の中に耳を澄まし、落ちてしまう言葉を拾い続けるために。
世界の端は、もう遠くの謎ではなかった。
胸の奥にひらく、小さな余白。
言えなかった言葉がそっと落ち、また拾われる場所。
リラは微笑んだ。
言葉たちが静かに息づき、どこかで誰かの心を温めているのを感じながら。

