見えないまちの案内猫

食べ物

夜更けの路地で、白い息を吐きながら私は迷っていた。
見慣れたはずの帰り道が、雨ににじんだネオンの中でまるで別の迷路に変わってしまったみたいだった。
スマートフォンの地図はぐるぐる回るばかりで、どちらが家なのかもわからない。
立ち止まったとき、足元で「にゃあ」と柔らかな声がした。

薄い灰色の猫が、暗がりから顔を出していた。
濡れた毛並みを小さく震わせながら、金色の目だけが灯りのように光っている。
猫は私をじっと見上げると、くるりと背を向け、歩き出した。
まるで「ついておいで」と言うように、何度も振り返りながら。

私は半ば心細さに押されるように、その小さな背中を追った。

猫は細い路地のさらに奥へ、普段なら通り過ぎてしまうような隙間へと入り込んでいく。
壁と壁の間をすり抜け、錆びた階段の下をくぐり、古い商店街のシャッターの影を横切った。
気づけば、街の音が遠のいている。
車の音も、信号の電子音も、まるで誰かが布で包んだように静かになっていた。

そして、突然、世界がひらけた。

そこには地図にない“まち”が広がっていた。
看板の文字は薄く光り、でも誰にも読まれていないように揺れている。
色あせたベンチには透明な誰かが腰かけている気配があり、止まったままの観覧車の影がゆっくりと呼吸していた。
風鈴の音が鳴るのに、肝心の風鈴は見当たらない。
すべてが“見えないけれど確かにある”世界。

猫は胸を張って先を行く。
私は思わず笑ってしまった。
ここでは迷子の自分さえ、少し誇らしく思えた。

古い橋の上を渡ると、足元の川面に灯りの粒が流れていた。
よく見ると、それは人々がこぼした小さな願いの形だった。
忘れられた夢、口にされなかった「大丈夫」、言えなかった「ごめんね」。
猫は器用にそれらを踏まないように歩く。
私はそっと覗き込み、自分の胸の奥にも同じような光があることに気づいた。

猫はやがて、苔むした広場で立ち止まった。
広場の真ん中には時計塔があり、針は動いていないのに、時刻だけが静かに進んでいる気がした。
猫は私の足元をくるりと回り、柔らかく頭を押しつけた。

「ここは、迷った人が来る場所なんだね」

声に出すと、猫の尻尾がひとつ揺れた。
肯定にも否定にも聞こえない、でも不思議と十分な答え。

私はベンチに座り、深呼吸をした。
胸のもやがほどけ、重たい荷物が少し軽くなる。
ここに来る前の心細さや焦りが、遠くに溶けていく。
気づけば、止まっていたはずの時計塔が小さく音を立てた。
時が、動き出した。

「ありがとう」

私が言うと、猫はもう一度短く鳴き、立ち上がった。
帰り道を知っていると言うように、ゆっくり歩き出す。
私も立ち上がり、その小さな案内人の後ろを歩く。

再びいくつもの隙間を抜け、路地の角を曲がると、聞き慣れた街の音が戻ってきた。
車の走る音、人の話し声、遠くの踏切。
振り返ったとき、あの“見えないまち”はもうなかった。
そこにはただ、雨上がりのアスファルトが光っているだけ。

足元の猫も、いつのまにか姿を消していた。
ただ、胸の奥に灯った小さな光だけが残っている。

私はポケットに手を入れ、夜空を見上げた。
道はもう迷路ではない。
見えないまちは、確かに存在した。
そして迷ったときには、きっとあの猫がまた案内してくれるだろう。

そう思うと、不思議と足取りは軽かった。