夜になると動き出す図書館の本たち

不思議

町のはずれに、古い石造りの図書館がある。
昼間は子どもたちの笑い声やページをめくる音でにぎわい、夜になると静かな闇に包まれる。
その扉が閉ざされるときこそ、図書館の「もうひとつの時間」が始まるのだ。

夜の十二時の鐘が遠くで鳴る。
すると最奥の本棚の一冊が、かすかに震えた。
古い童話集のページがふわりと開き、眠っていた言葉たちがあくびをする。
どこからともなく風が吹き抜け、扉のすき間から月の光が差し込むと、棚の本たちが一斉にざわめき始めた。

最初に飛び降りたのは、冒険物語の分厚い本だった。
「さあ、今夜も探検の時間だ!」
金色の題字を胸のように輝かせながら、本はページを翻し、床を滑るように進む。
そのあとを追いかけるのは、地図帳と図鑑たち。
地図帳は大きな背表紙を揺らしながら、「今度は南の海の上を歩いてみよう」と誇らしげに言い、魚の図鑑は表紙から飛び出したイルカたちと一緒に、本棚の影を跳ね回る。

文学書の棚のあたりでは、詩集が静かに歌い始めた。
柔らかな言葉が宙に浮かび、月光に溶けては消えていく。
周囲に集まった物語たちは、その音色に耳を傾け、しばし冒険を忘れる。
分厚い歴史書でさえ、ぱらぱらとページを揺らしながら、昔日の王や城を思い出したように息をつく。

その中で、一冊だけ、じっと動かない本があった。
まだ新しい真っ白な表紙のノートだ。
どの棚にも分類されず、貸し出されたこともない。
ページはまっさらで、物語も挿し絵もない。
「ねえ、どうして遊ばないの?」
童話集が声をかけると、ノートは小さく表紙を震わせた。
「ぼくには、何も書かれていないんだ。みんなみたいに、語る物語がない」

周りの本たちは顔を見合わせた。
冒険物語が胸を張って言う。
「物語は、最初から完成している必要なんてないさ。
海へ出れば波が話をくれるし、森へ行けば木々が続きを教えてくれる」
詩集もやさしく続ける。
「空白は、悲しいことじゃないわ。まだ誰も知らない言葉が生まれる場所だから」

それでもノートは不安そうだった。
そこへ、図書館の奥から小さな足音が近づいてきた。
がちゃり、と鍵の音。
夜の見回りをする、若い司書の少女だった。
彼女は机の上に置き忘れられていたノートを見つけ、そっと手に取る。
「これは……新品のままだね。明日から子どもたちの日記帳にしようかな」
そうつぶやいて、ノートを胸に抱きしめる。

ノートはその瞬間、初めて自分の中に温かいものが灯るのを感じた。
まだ何も書かれていないけれど、これから書かれる言葉がある。
笑い声、涙の跡、小さな夢や秘密――それらが自分のページを満たしていく未来を、はっきりと思い描くことができた。

司書が去り、再び静寂が訪れる。
夜明けが近づき、本たちはそれぞれの棚へ帰っていく。
冒険物語は名残惜しそうにページを閉じ、詩集は最後の一行をそっと夜に溶かした。

ノートは棚に戻されながら、小さくつぶやいた。
「ぼくの物語は、これから始まるんだね」

やがて朝の光が窓から差し込む。
扉が開き、子どもたちの声が流れ込む。
昼の図書館は、何事もなかったかのように静かだ。
しかし、本たちは知っている。
夜になればまた、言葉たちが目を覚まし、誰にも見られない世界でページを鳴らすということを。

そして今夜も、十二時の鐘が鳴るのを心待ちにしているのだ。