古い港町の坂の途中に、看板も目立たない小さな酒屋があった。
木の扉を開けると、ほの暗い店内に静かな時間が流れ、棚には色とりどりの瓶が並んでいる。
その中央の棚に、いつも並んで置かれている二本のワインがあった。
深い紅をたたえた赤ワインと、淡い金色に光る白ワインだ。
赤ワインは重厚な瓶に入っていた。
長い年月をかけて熟したぶどうの力をそのまま閉じ込めたようで、近づくと森や土、そしてほんのりとした甘さを感じさせる香りが立ちのぼる。
彼は自分のことを「記憶のワイン」だと思っていた。
祝いの席や別れの夜、語り合う声のそばに置かれ、人の心に深く残る時間を何度も見てきたからだ。
一方、白ワインはすっきりとした透明な瓶に入っていた。
光を受けるとやさしく輝き、柑橘や花のような香りをまとっている。
彼女は「始まりのワイン」だった。
初めての食事会、久しぶりの再会、少し緊張した昼下がりに選ばれることが多く、人の表情がふっと緩む瞬間を知っていた。
二本は夜になると、誰もいなくなった店内で静かに語り合った。
「君は軽やかでいいね。人を前に進ませる力がある」
赤ワインが低く言うと、白ワインは少し笑うように瓶をきらめかせた。
「でも、あなたは深いわ。人が立ち止まり、自分を見つめ直すとき、必ずあなたがそばにいる」
彼らは違っていたが、互いを否定することはなかった。
赤ワインは白ワインの明るさに救われ、白ワインは赤ワインの重みを尊敬していた。
ある雨の日、一人の女性が店を訪れた。
疲れた表情で棚を眺め、しばらく迷ったあと、二本を交互に見つめる。
店主は何も言わず、ただ静かに見守っていた。
女性は小さく息をつき、二本ともを籠に入れた。
その夜、女性の部屋では、久しぶりに食卓に灯りがともった。
まず白ワインが開けられ、軽やかな音とともにグラスに注がれる。
彼女は一口飲み、少しだけ肩の力を抜いた。
次に赤ワインが開けられ、ゆっくりとした時間が流れ出す。
女性は窓の外の雨を眺めながら、過去の出来事を思い返し、そして静かに受け入れた。
二本のワインは、その夜、同じテーブルの上で役目を果たした。
始まりと記憶、軽やかさと深さ。
そのどちらもがあって、ようやく人の時間は豊かになる。
翌朝、空になった瓶は並んで窓辺に置かれていた。
朝日を受けて、赤は深く、白はやさしく輝く。
役目を終えても、二本は満足そうだった。
赤ワインは知っていた。
白ワインの光があるから、人はまた歩き出せるのだと。
白ワインも知っていた。
赤ワインの影があるから、前に進む一歩は確かなものになるのだと。
港町の酒屋では、今日も新しい二本のワインが棚に並べられる。
赤と白は語らずとも、同じ願いを胸に秘めている――誰かの時間に、そっと寄り添うために。


