夏の午後、商店街のはずれにある小さな喫茶店「ミナト」には、いつも同じ時間に同じ客がやってくる。
その人は三十代半ばの女性で、窓際の席に座り、メニューを開く前からこう言う。
「ゆずシャーベットを、ひとつください」
彼女の名前は澪(みお)。
近くの出版社で校正の仕事をしていて、文字の海に一日中潜っている。
誤字や違和感を見つけるのは得意だが、自分の気持ちを言葉にするのは、昔から少し苦手だった。
澪がゆずシャーベットを好きになったのは、十年前のことだ。
仕事に失敗し、初めて大きな挫折を味わった夏、実家に戻った彼女は、何もする気になれず縁側でぼんやりしていた。
そのとき、祖母が差し出してくれたのが、手作りのゆずシャーベットだった。
ひと口食べた瞬間、冷たさと一緒に、すっと鼻に抜ける香り。
甘さの奥に、きゅっとした酸味と、ほのかな苦みがあった。
「人生も、こんなもんだよ」
祖母は笑いながらそう言った。
「甘いだけじゃない。でも、悪くないでしょう」
その言葉と味は、澪の中に静かに残り続けた。
喫茶店「ミナト」のゆずシャーベットは、市販のものではない。
店主が毎年、知り合いの農家からゆずを分けてもらい、皮を削り、果汁を絞り、丁寧に作っている。
澪はその手間を知っているから、スプーンを入れる前に、少しだけ眺めるのが習慣だった。
淡い黄色の氷の粒が、午後の光を受けてきらきらと輝く。
ある日、隣の席に座った若い男性が、珍しそうにその皿を見て声をかけてきた。
「それ、美味しいんですか?」
澪は少し迷ってから、うなずいた。
「…さっぱりしてます。でも、ちゃんと味が残ります」
彼も同じものを注文し、ひと口食べて目を丸くした。
「思ってたより、深いですね」
その一言に、澪は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
誰かが、自分の好きなものを理解してくれた気がしたのだ。
それから二人は、ときどき同じ時間に店で会うようになった。
多くは話さない。
ただ、同じシャーベットを食べ、同じ窓の外を眺める。
澪は思う。
ゆずシャーベットが好きなのは、その味だけではないのだと。
冷たさの中にある確かな香りや、後に残る余韻。
それは、自分の歩いてきた道そのものだった。
甘さだけを求めなくなった今、澪はようやく、自分の人生の味を好きになり始めていた。
スプーンを置き、溶けかけたシャーベットを見つめながら、彼女は静かに微笑んだ。


