町のはずれに、ひとりで暮らす青年がいた。
名をソウタという。
彼は、生まれつき「ものすごく耳がいい」人だった。
遠くの踏切が下りる前の、金属がわずかに軋む音。
雲が流れるときに風が変わる、その境目の気配。
人が言葉にする前の、胸の奥で揺れたため息まで、音として聞き取ってしまう。
子どもの頃、ソウタはその力を誇らしく思っていた。
教室の後ろで鉛筆が転がる音だけで、誰が落としたか当てられたし、廊下の足音で先生の機嫌もわかった。
だが成長するにつれ、世界は騒がしくなった。
喜びの声より、怒りの息遣い。
笑顔の裏に隠れた沈黙。
聞きたくない音ほど、彼の耳に鮮明に届いた。
やがてソウタは町の外れに移り、静かな生活を選んだ。
仕事は夜の図書館の整理。
人が少なく、紙が触れ合う音だけが穏やかに響く。
帰り道、川沿いを歩くと、水が石に当たる低い音が胸を落ち着かせた。
彼は「聞く」ことで傷つき、「聞かない」ことで守ろうとしていた。
ある雨の日、ソウタは古い家の軒先で、傘を持たずに立ち尽くす少女に出会った。
年の頃は十歳ほど。
濡れた靴の中で、足が小さく震える音がした。
彼は何も聞かずに通り過ぎようとしたが、少女の喉が鳴る、言葉にならない音が耳を引いた。
「家、遠いの?」
そう尋ねると、少女は小さくうなずいた。
彼女の胸の奥で、勇気が弾く音がした。
ソウタは自分の傘を差し出し、並んで歩いた。
道すがら、彼は不思議に思った。
彼女の音は、澄んでいた。
恐れはあっても、他人を責める音がなかった。
家に着くと、少女は深く頭を下げた。
そのとき、ソウタの耳に、彼女の心臓が速く打つ音と一緒に、安堵が静かに広がる音が届いた。
胸の奥が、久しぶりに温かくなった。
それから、ソウタは少しずつ町に戻るようになった。
朝の市場で、魚が氷に触れる音を聞き、パン屋で生地が膨らむ微かな呼吸を聞いた。
人の声の裏にある、やさしさの音を探すようになった。
すべての音を受け取る必要はない。
選ぶことができるのだと、彼は知った。
ある夜、図書館で老婦人が本を落とした。
ページが床に触れる音に、彼女の焦りが混じる。
ソウタはそっと拾い、微笑んだ。
老婦人の心から、ありがとう、という音が小さく鳴った。
ものすごく耳がいいことは、呪いでも才能でもなく、ただの窓なのだとソウタは思う。
閉めることも、開けることもできる窓。
彼は今日も、聞きたい音だけを選びながら、世界と歩いていく。

