海沿いの小さな町に、「サンセット・スプーン」という古いシャーベット屋があった。
店の扉を開けると、必ず爽やかな柑橘の香りが迎えてくれる。
その香りの正体こそ、店主・アキが心を込めて作る名物の“オレンジシャーベット”だった。
アキはまだ若いが、祖父からこの店を受け継いだ。
祖父は町中の誰よりもシャーベット作りが上手で、特にオレンジの味は「魔法みたいだ」と評判だった。
しかし、去年の夏の終わりに静かに息を引き取って以来、その味を再現するのはアキにとって大きな悩みとなっていた。
「香りの立ち方が違うんだよな……」
アキは今日も仕込み部屋でため息をついた。
祖父のレシピは確かに残されているのに、あの鮮やかな味がどこか足りない。
店を訪れる常連たちも、優しく励ましてくれるものの、アキは自分の中で納得がいかなかった。
そんなある日の夕方、海辺に住む少女・ミナが店にやってきた。
彼女は祖父が生きていたころからの常連で、オレンジシャーベットを一番好きと言ってくれた客だ。
ミナはカウンターに腰掛けながら、いつものように明るく言った。
「ねえアキくん、今日のシャーベット、ちょっと味が変わった?」
アキは苦笑いして、正直に打ち明けた。
「うん……どうしても、おじいちゃんの味にならなくてさ」
ミナはスプーンをくるくる回しながら、少し考えるように目を細めた。
「ねえ、アキくん。おじいちゃんのシャーベット、どうして特別だったんだと思う?」
「……うまく言えないけど、ひと口食べるだけで、夏の空がぱっと広がる感じがしたんだ」
「じゃあ、その空を思い出しながら作ってみたら?」
アキはハッとした。
祖父はよく言っていた。
「気持ちも味に入るんだよ」と。
その言葉を何度も聞いていたのに、味を再現することばかり考えて、祖父と過ごした夏の記憶を忘れかけていたのだ。
夜、仕込み部屋に戻ったアキは、祖父と一緒に海辺でオレンジを搾った日を思い出した。
潮風に混じる柑橘の香り、眩しい光、祖父の笑い声――すべてが胸の中に鮮明に戻ってくる。
涙がひと粒、ステンレスのボウルに落ちた。
「よし、もう一度やってみよう」
アキは祖父の残した手帳を開き、丁寧にオレンジの皮を削り、果汁を搾った。
だが今回は数字を追うだけでなく、祖父とともに感じたあの夏を心の中で再現しながら、そっと味を整えていった。
翌朝、一番に店にやってきたのはミナだった。
アキはできたてのシャーベットをカップに盛り、少し緊張しながら差し出した。
ミナはひと口食べると、ぱっと顔を輝かせた。
「これ……戻ってる! おじいちゃんの味だよ!」
「ほんとに?」
「うん。でもね、ほんのすこし違う。アキくんの優しい味がしてる」
アキの胸にあたたかなものが広がった。
祖父の味を完全に再現するのではなく、自分の中の記憶を重ねて作る――それが本当に守るべき“味”なのだと、ようやく気づいた。
その日、店には朝からたくさんの客が訪れた。
海辺の町に広がる爽やかな香りとともに、サンセット・スプーンのオレンジシャーベットは再び夏の風物詩として愛されるようになった。
カウンターの奥には、祖父の写真が飾られている。
「おじいちゃん、やっとできたよ」
アキは心の中でそうつぶやき、今日も新しいオレンジを手に取るのだった。
――こうして、夏の光を閉じ込めたオレンジシャーベットは、世代を越えて人々に幸せを届け続けていくのであった。


