丘の上に、風にゆれる紫の海があった。
毎年、初夏になると一面に咲き誇るラベンダー畑。
その奥に、小さな木造のはちみつ工房「ミエルの家」がぽつんと立っていた。
工房を営むのは、若い養蜂家の澪(みお)。
祖母から受け継いだ木箱の巣箱を大切に守りながら、ミツバチたちと静かに暮らしている。
澪は幼い頃から、祖母が作る“ラベンダーはちみつ”が大好きだった。
花の香りがそのまま溶け込んだような味で、ひとさじ舐めるだけで心がふわりと落ち着いた。
けれど祖母が亡くなり、澪一人になってから、工房のラベンダー畑はどこか元気を失っていた。
花は咲き揃うのに、はちみつは思うように採れない。
それでも澪は毎朝ミツバチたちに声をかけた。
「今日もよろしくね。みんなが戻ってくる場所、ちゃんと守るから」
そんなある日、巣箱のひとつから弱った女王蜂が見つかった。
群れが不安定になれば、はちみつはもちろん、ミツバチたちの命が危うい。
澪は手を震わせながら祖母の古いノートを開いた。
そこには、丁寧な文字でこう書かれていた。
――“ラベンダーの香りは、蜂たちの心を落ち着ける。人間も同じよ。”
澪は思い切って、花畑のさらに奥で眠っていた古いラベンダーの株を掘り起こし、新しい土に植え替えた。
祖母が「この子は特別」と言っていた株だ。
香りはどこか懐かしく、あたたかい。
澪は毎日その株のそばで、ミツバチと同じように深呼吸をして心を整えた。
数日後、弱っていた群れのミツバチたちが、その株の周りを優しく飛び回り始めた。
女王蜂も少しずつ元気を取り戻し、巣箱は再び活気づいた。
そして迎えた収穫の日。
澪が瓶に落とした最初の一滴は、淡い金色にほんのり紫の影を宿していた。
蓋をあけると、祖母のミエルの家に満ちていた、あの懐かしい香りがふわっと広がった。
「おばあちゃん…ただいま。ちゃんとできたよ」
澪は思わず涙をこぼしながら、ひとさじ味見をした。
舌の上でとろける甘さは、優しさと寂しさと、そして未来への希望が混ざり合ったようだった。
その年、ミエルの家のラベンダーはちみつは村で評判になり、訪れる人の数も増えていった。
でも澪にとって一番大切なのは、工房の裏で今日も花の上を飛ぶ、小さな命たちの羽音だった。
「ありがとう。みんなのおかげで、この場所はまた息をしてるよ」
夕暮れの風がラベンダーの海をゆらし、紫の波は金色の光をまとって輝いた。
澪はその中で静かに目を閉じ、祖母と交わした小さな約束を胸に抱いた――
“この香りを、未来にも届ける。”


