きりたんぽ鍋のあたたかい帰り道

食べ物

秋田の山あいにある小さな集落――桐森(きりもり)に、ひとりの青年が帰ってきた。
名前は悠斗。東京での仕事に追われる日々が続き、心身ともに疲れ果て、「少しだけ休みがほしい」と思ったとき、ふと故郷の匂いを思い出したのだ。
ストーブの香り、風の冷たさ、そして、あの湯気の立つきりたんぽ鍋の味。

久しぶりに降り立った桐森のバス停は、冬の気配をまとった冷たい空気に包まれていた。
白い息を吐きながら実家の前に立つと、母がちょうど戸を開けたところだった。

「ただいま、母さん」
「あらまあ、急にどうしたの。さあ、入って。今日はちゃんと準備してたんだよ」

悠斗が靴を脱いだ瞬間、懐かしい香りが鼻をくすぐった。
セリの爽やかな香り、比内地鶏の旨み、そして炊き立ての米をつぶして焼いたきりたんぽの香ばしさ――それらが部屋中に広がっていた。

「まさか…きりたんぽ鍋?」
「そうよ。あんたが好きだったでしょう。今日みたいな寒い日は、これが一番あったまるもの」

大鍋の中では、黄金色のスープがぐつぐつと静かに沸き、炭火で軽く焦げ目のついたきりたんぽがふわりと浮いていた。
子どもの頃、鍋が仕上がるまで台所のそばから離れなかった自分を思い出し、悠斗は思わず笑った。

夕飯が始まると、母はいつものように「いっぱい食べな」と言って、鍋からきりたんぽを取り分けてくれた。
ひと口かじった瞬間、ほどよく出汁を吸ったきりたんぽがじゅわっと広がり、比内地鶏の旨みがしみたスープと合わさって、胸の奥まで温かくなった。

「やっぱり、これだなあ」
「ほら、疲れてるんじゃないかと思ってね。食べると、ちょっとは楽になるでしょう」

母の言葉に、悠斗は心がじんわりと緩むのを感じた。
ふと、外から雪が降り始める気配がした。
窓の外に舞う白い粒子が、まるで帰ってきた彼を祝福するかのようにゆっくり降っていた。

「東京はどうなの? ちゃんとやれてる?」
「うーん……なんとか。でも、最近ちょっと詰め込みすぎた。久しぶりに、こっちの空気を吸いたくなってさ」

母は頷きながら、鍋に新しいきりたんぽをそっと足した。

「無理してもいいことなんかないよ。あんたが休みたいと思ったら、いつだって帰ってくればいいんだ」

その言葉は、小さな台所に似合わず大きく響いた。
都会では聞けない、温度のある言葉だった。

鍋を囲んでいると、次第に身体だけではなく、胸の中に積もっていた疲れまでも溶けていくようだった。
母と他愛ない話をしながら、悠斗は久しぶりに心から笑った。

食後、外に出ると、桐森の夜は深々と雪に染まっていた。
遠くの山の闇は濃く、白い雪だけが淡い光を反射していた。

「明日、村の市場に一緒に行ってみる? きりたんぽの材料、いっぱい売ってるよ」
「いいね。久しぶりに見て回りたい」

手袋をした手の指先が少しだけ冷える。
だが、その冷たさすら愛おしく思えた。
東京では感じられない、故郷の冬の匂いが、胸いっぱいに広がった。

家に戻ると、母が言った。

「ゆっくりしていきなさい。ここは、あんたの場所だからね」

その言葉に、悠斗は静かに頷いた。
鍋の残り香がまだ家中に漂っていた。
きりたんぽ鍋の湯気のように、柔らかく、そして確かな温もりが、心にそっと灯り続けていた。