山の空気は、冬になると少しだけきらめきを帯びる。
冷たさの奥に、どこか甘い香りが混じるような——そんな気がするのは、きっとこの場所に特別な思い出があるからだ。
美雪が初めてスキー場に来たのは、小学三年生の冬だった。
父に連れられて滑った初心者コース。
転んでは笑い、滑っては転び、真っ赤な頬で「もう一回!」と叫んだ。
自分でも気づかぬうちに、雪と風の世界が大好きになっていた。
そして今、美雪は二十二歳。
大学の冬休みを使って、久しぶりにあのスキー場を訪れていた。
学生生活もあと一年。就活もそろそろ本格化する。
心のどこかに、焦りにも似た重さがあった。
——だからこそ、思い切り滑りたかった。
子どもの頃に感じた、あの胸の奥がふわっと軽くなる瞬間に、もう一度出会いたかった。
リフトに揺られながら、美雪は山肌を染める白銀の斜面を見下ろした。
そこに、ひとりの青年が立っていた。
青いウェアに包まれ、軽やかにストックを回す。
ふと目が合うと、彼はにこりと笑って手を振った。
「久しぶり、美雪」
彼の名は悠馬。
幼馴染で、かつて毎年のように一緒にスキーに来ていた仲だった。
しかし高校が別になり、大学も遠く、自然と会うことは減っていった。
まさか同じ日に同じスキー場を訪れるなんて、思いもしなかった。
「偶然だね!」
「ううん、偶然じゃないよ。実は毎年ここに来てたんだ。もしかしたら会えるかなって」
その言葉に、美雪の胸が少し温かくなった。
二人は昔と同じように並んで滑り始めた。
風を切る音、雪を踏む感触、身体が自然に覚えているリズム。
最初は少しぎこちなかったが、滑るうちにだんだんと心がほどけていく。
「美雪、滑り方変わってないね」
「悠馬こそ。なんか大人になった感じ」
「そりゃ俺たち、もう子どもじゃないからな」
冗談めいた口調なのに、その目はどこか真剣で、美雪は胸が少しざわついた。
昼過ぎ、山頂から一気に滑り降りるロングコースに挑戦した。
天気は晴れ。
空は深い冬の青で、雲ひとつなかった。
ふたりはスタート地点に並び、目を合わせ、同時に踏み出した。
最初の大きなカーブ、美雪は久々のスピードにバランスを崩し、雪面に足を取られた。
「あっ——!」
視界が傾き、身体が雪に倒れ込む、その瞬間。
ぐっと腕を引かれた。
悠馬だった。
素早く近づき、美雪の身体を支えるように抱きとめていた。
近い。
息がかかる。
胸の鼓動が、雪の静けさに響きそうだった。
「大丈夫?」
「……うん、ありがとう」
離れたくないと思ったのは、滑って転んだからではなく、今この瞬間の温度のせいだと気づいた。
午後の斜面を降りるとき、風が頬を通り抜け、美雪はふと思った。
——昔はただ楽しくて滑っていた。
でも今は違う。
滑ることより、大切な人と同じ景色を見ていることが嬉しい。
夕方、空が薄桃色に染まり始めた頃、悠馬がふと言った。
「美雪、来年も来よう。就活で忙しくなっても、どんなに離れても……また一緒に滑りたい」
それは、雪の中で交わす、小さなけれど確かな約束だった。
美雪は微笑んで頷いた。
「うん。絶対に来よう。来年も、その先もずっと」
リフトの上から、白銀の世界がゆっくりと暮れていく。
風は冷たくても、胸の奥は不思議なほど温かかった。
雪の上に刻まれた二人の軌跡は、やがて消えてしまうだろう。
それでも——今日の時間だけは、永遠に消えない。
冬の山は静かに、二人の約束を抱きしめていた。


