山並みが黄金色に染まり始める秋の午後、小さな洋菓子店「ル・シエル」には、甘く香ばしい栗の香りが漂っていた。
店主の由依は、窓辺の栗を手に取りながら、そっと微笑んだ。
毎年この季節になると、必ず思い出す人がいるからだ。
由依がモンブラン作りを始めたのは十年前。
製菓学校の研修で訪れたフランスの町で出会った、ひとりの老パティシエがきっかけだった。
彼は山のように積まれた栗を前に、黙々と皮をむき、丁寧に裏ごししていた。
その姿に惹かれ、由依は思わず声をかけた。
「どうしてそんなに時間をかけるんですか?」
彼は手を止め、穏やかな目で由依を見た。
「栗はね、急ぐとふてくされるんだよ。手間を惜しまないと、ちゃんと味で返してくれる」
その言葉は、若かった由依の胸に強く刻まれた。
老パティシエが作ったモンブランは、まるで秋そのものを閉じ込めたように深く優しい味だった。
日本に帰ってからも、由依は何度も試作を重ねた。
栗の種類、砂糖の量、クリームとの比率――わずかな違いで表情が変わる繊細な菓子に、何度も悩まされながらも、不思議と心は折れなかった。
むしろ、作るほどに、その奥深さに魅せられていった。
やがて自分の店を構えたころ、「あの味」に近づけたと思える瞬間が訪れた。
モンブランを口にした常連客が、ほっと息を漏らして笑ったのだ。
「なんだか懐かしい味がしますね」
その一言に、由依の胸はじんと熱くなった。
そして今年の秋。
店の前には、栗を使った菓子を心待ちにする客が何人も並んでいた。
中には、十年近く通い続けてくれている親子の姿もある。
小学生だった娘が、今では制服姿の高校生になっていた。
「今年もモンブラン、楽しみにしてました」
娘がそう言って笑うと、由依は自然と頬がゆるんだ。
厨房に戻り、栗のペーストをしぼり袋に詰める。
何度も繰り返した動きなのに、いつも胸が高鳴る。
細く絞られた栗の糸が、白い生クリームの山を包み込んでいく。
その様子は、まるで秋の山脈にゆっくりと夕陽が差し込んでいくようだった。
仕上げに粉砂糖を軽くふりかける。
すると、ふわりと雪が積もったモンブラン山が現れた。
由依はそっとつぶやく。
「また今年も、おいしくできましたよ」
まるで遠くの国にいる老パティシエへ届くように。
箱に詰めて店頭に出すと、先ほどの親子が受け取りにきた。
母親が言った。
「由依さんのモンブラン、秋になると食べたくなるんです。毎年の楽しみなんですよ」
その言葉に、由依は胸の奥が温かくなる。
誰かの季節の中に、自分の作った小さな山が存在している――それが何よりの喜びだった。
夕方、店が落ち着くと、ふと窓の外に目を向けた。
金色の夕陽が、遠くの山々を照らしている。
まるであのフランスで見たアルプスの山のように、美しく雄大だった。
由依はそっと頷いた。
「来年も、再来年も、この味を届けよう」
栗の山、雪の粉砂糖、そして人々の笑顔。
そのすべてがつながって、彼女の中に新しい季節を形づくっていく。
モンブランはただのケーキではなく、由依にとって“約束”そのものだった。
—秋が訪れるたび必ず心を込めて作るという、自分自身との約束。
そしてその約束は、今年もまた静かに果たされたのだった。


