闇に沈む鍵

ホラー

夜の十一時、真冬の風が窓を鳴らす頃、私は一人、古びたアパートの部屋で報告書を書いていた。
隣の部屋は数日前から空き部屋になっていて、壁越しの気配は全くない。
あるのはキーボードと時計の音だけ――のはずだった。

カサ…カサ…
紙を擦るような音が、右の壁から聞こえてきた。

私は手を止めた。
空き部屋のはずなのに誰かがいるのだろうか。
耳を澄ませると、音はしばらく止まり、またすぐに始まる。
何かが這うような、指で壁を撫でるような音。

深夜だし、気のせいかもしれない。
そう思い、作業に戻ろうとした瞬間――。

コン…コン。

はっきりと、壁が叩かれた。

心臓が跳ねる。
アパートの壁は薄いとはいえ、隣が空き部屋なら叩くのは誰なのか。
私は静かに耳を寄せた。

コン…コン…コン。

一定の間隔で続くその音は、まるでこちらの反応を待っているようだった。

「……誰かいるんですか?」

思わず声をかけた。
返事はない。
それどころか叩く音が止まり、部屋全体が静まり返った。

私は不安をごまかすように笑って席に戻ろうとした。
だが、次の瞬間――。

コン。

今度は、私の後ろの壁から聞こえた。

慌てて振り返る。しかしそこには、ただ色褪せた壁紙があるだけだ。
私は背筋に冷たい汗を感じながら、角の立ったカッターを握りしめた。
誰かが廊下に出て、私の部屋の周りを叩いているのかもしれない。
そう自分に言い聞かせ、勇気を振り絞ってドアを開けた。

廊下は薄暗い蛍光灯が揺れるだけで、誰の姿もなかった。
私は隣の空き部屋の前まで歩き、扉に耳を当てた。

――カサ…カサ…。

間違いない。
部屋の中から聞こえる。

管理人に連絡すべきだと頭では思ったが、なぜか体が勝手にポケットの鍵を取り出していた。
以前、住人が退去するときに預かっていた合鍵だ。

私は息を飲み、その鍵を静かに差し込んだ。

カチャ…。

扉が開いた瞬間、冷気が流れ出したように感じた。
部屋の中は真っ暗で、ほこりの匂いが濃い。
スマホのライトで照らすと、がらんとした空間が広がっていた。

何もない。誰もいない。
ただ、部屋の中央――床一面に黒い線が細かく刻まれていた。

線は、まるで爪で引っかいたようにも見える。
私は思わず身を震わせた。

その時だった。

背後で扉が閉まった。

「……え?」

私は急いで振り向いたが、扉は閉まったまま動かない。
ドアノブを回すが硬直したようにびくともしない。
冷たい空気が背中を撫でる。

カサ…カサ…カサ…。

今度は、部屋の四方から音が響き始めた。
まるで壁の中に何十もの“何か”が潜んでいるように。

スマホの灯りが震える手で揺れた瞬間、床の黒い線が、じわり、と動いた気がした。

「嘘だろ…」

目を凝らすと、線は一本一本がうねっており、まるで無数の細い指が床から生えているようだった。

指はゆっくりと、しかし確実に私の足元へ伸びてきた。

スマホが滑り落ち、光がぐるぐると床を照らす。
そのたびに、影がざわざわと蠢く。
私は恐怖で腰が抜け、床に尻をついた。

ひときわ長い指が、私の足首をつかんだ。

冷たい。

瞬間、全身の力が抜け、声すら出なかった。
指はずるずると力強く、私を床の黒い亀裂の中へ引きずろうとする。
必死で手を伸ばした。

壁に届く。
爪が引っかかる。
だが――

壁の内側から、別の指がこちらの手をそっと掴んだ。

そして耳元で、かすれた声が囁いた。

「……鍵、返して」