商店街の外れに、小さなおでん屋「ほたる」がある。
冬が近づくと、夕暮れと同時に提灯が灯り、湯気の向こうからだしの香りがふわりと漂う。
店主の志乃は、白い割烹着を身につけながら、大きな鍋に一つずつ具材を沈めていく。
大根はじっくりと半日煮込んで透き通るほどに。
卵は煮崩れしないよう火加減を慎重に。
厚揚げ、ちくわぶ、昆布巻き——どれも志乃が幼い頃、祖母から習ったやり方のまま。
「同じ味を守っていれば、また会える日がくるよ」
祖母がよく言っていた。
意味はわからなかったが、その言葉は志乃の胸にずっと残っていた。
その夜、暖簾をくぐってきたのは、見慣れない若い男性だった。
黒いマフラーに冷えた手をこすり合わせ、控えめに空いた席に座る。
「おすすめは?」
少し照れくさそうに尋ねるその声に、志乃はにっこり笑った。
「まずは大根と、昆布巻き。それから、お好きなら牛すじも」
湯気の立つ器が前に置かれると、男性は目を細めた。
「……ああ、いい匂いだ」
その穏やかな声に、志乃は祖母の言葉を思い出した。
「初めて来てくださったんですか?」
「ええ。でも……なんだか懐かしいんです。この味」
男性は大根を箸で割り、口に運んだ。
しばらく目を閉じて、「ああ」と吐息を漏らす。
「昔、冬になると祖母がよく作ってくれたんです。あんまり上手じゃなかったけど、帰るといつも机の上に湯気の立つおでんがあって……」
志乃は驚いた。
自分と同じように、祖母との思い出がおでんにつながっているらしい。
「お祖母さま、喜んでいたでしょうね。一緒に食べる人がいて」
男性は少し笑って「そうだといいんですけど」と呟いた。
その横顔には、どこか遠くを見るような影があった。
「実は……」
男性は湯気の向こうで言葉をゆっくり選んだ。
「その祖母が、先週亡くなりまして。葬式の帰りに、ふと温かいものが食べたくなって。気づいたらここに」
志乃は胸がぎゅっと締めつけられた。
おでんが、誰かにとって「帰る場所」になることを、祖母も知っていたのだろうか。
「……よかったら、少し長くいてくださいね」
志乃がそう言うと、男性はほっとしたように微笑んだ。
「また来ていいですか?」
「もちろん。お待ちしています」
その夜、店を閉めたあと、志乃は祖母の写真の前に線香をあげた。
「今日ね、あなたの味を覚えている人が来たよ」
そう報告すると、不思議と胸が温かくなった。
——同じ味を守っていれば、また会える日がくるよ。
あの言葉の意味が、少しだけわかった気がした。
数日後、男性は再び暖簾をくぐった。
「こんばんは。今日は卵と……そうだな、がんもどきを」
前より少し自然な声だった。
志乃は器を差し出しながら言った。
「寒かったでしょう。よかったら、ゆっくり温まってください」
外は冷たい風が吹いていたが、店内の空気は穏やかで温かい。
湯気が立ちのぼり、だしの香りが二人の間を優しく満たす。
その瞬間、志乃は気づいた。
——おでんは、人をつなぐ料理だ。
味を守ることで、思い出を温め、誰かの寂しさをそっと包む。
男は微笑みながら箸を進める。
「やっぱり……この店に来てよかった」
志乃も微笑み返した。
「こちらこそ。こうして来てくださって、嬉しいです」
鍋の中では、大根が静かに煮えている。
その湯気は、まるで灯りのように、おでん屋「ほたる」をやさしく照らし続けていた。

