りんごの灯(あかり)

食べ物

――甘くて、ほっとする香りには、不思議な力がある。

長野の山あいに、小さな焼きリンゴ専門店「りんごの灯(あかり)」がある。
店主の美空(みそら)は三十代半ばの女性で、外から見るとごく普通の小さなカフェだが、扉を開けると誰もが驚く。
店に満ちるのは、焼きあがった林檎の甘酸っぱい香り、シナモンがふわりと舞うような温かい空気。
その香りを一度でも吸い込めば、心の奥にしまっていた懐かしい記憶がじんわりよみがえってくるのだ。

美空が焼きリンゴに魅せられたのは、幼い頃の冬。
大雪の日に店を営んでいた祖母が、停電で何もできない中、薪ストーブの上に林檎を置いて焼いてくれた。
甘く香ばしい匂いが部屋に広がり、寒さや暗さがすっと消えていった。
ひとくち食べれば、じんわりと温かさが広がり、祖母の優しさそのもののように感じた。
その記憶は、美空の中でずっと灯り続けていた。

やがて大人になり、都会で忙しく働く日々に疲れた美空は、ふと幼い日のあの香りを思い出す。
胸の奥がキュッとするほど懐かしく、あの温かさをもう一度届けたいと思った。
そうして思い切って会社を辞め、祖母の家のあった長野へ戻り、焼きリンゴの専門店を開くことにしたのだ。

店のメニューは一見シンプルだ。
「基本の焼きリンゴ」「はちみつバター焼き」「くるみキャラメル焼き」「紅玉のホットパイ風」など、どれも林檎を主役にしたものばかり。
しかし、どれも美空が試行錯誤を重ねた自信作だった。

美空は毎朝、近隣の農家へ直接足を運び、その日一番おいしいリンゴを仕入れる。
農家の人々との会話も楽しみのひとつだ。
「今年は寒暖差があって甘みが強いよ」「この畑は風がよく通るから香りが違うんだ」そんな言葉に耳を傾けながら、林檎ひとつにも物語があることを感じる。

ある日、店に一人の青年が訪れた。どこか沈んだ表情をしていて、美空はすぐに気付いた。青年は「何でもいいので、温かいものを」とだけ言った。
美空は迷わず、祖母から受け継いだレシピの「薪ストーブ風・丸ごと焼きリンゴ」を用意した。

焼きあがったリンゴを運ぶと、青年はふわりと漂う香りに目を瞬かせた。
ひとくち食べると、ぽつりと呟いた。

「……これ、小さい頃に母がよく作ってくれました」

青年は都会での仕事に挫折し、心が折れかけていたのだという。
美空は静かに頷きながら、祖母の言葉を思い出す。

――“焼きリンゴはね、人の心をあっためるお薬みたいなもんだよ”

青年は食べ終える頃には少しだけ表情が明るくなっていた。
「また来ます」と言い残し、店を出て行った。
その背中を見送りながら、美空は胸の奥に温かい灯がともるのを感じた。

それから「りんごの灯」には、仕事帰りに立ち寄る人、旅の途中でふらりと訪れる人、涙をこぼしながらカウンターで温かさを求める人……さまざまな客が訪れるようになった。
美空は誰に対しても特別な言葉はかけない。
ただ丁寧に林檎を焼き、香りと温もりをそっと手渡すだけだ。

冬のある日、美空は店の裏手に小さな薪ストーブを置き、祖母の家と同じような空間を作った。
ストーブの上には、丸ごと焼かれる林檎がコトコトと音を立て、ふわりと甘い香りを漂わせている。
時折、雪のちらつく窓の外を眺めながら、美空は思う。

――ひとつの焼きリンゴが、誰かの心に灯りをともせますように。

店の名前「りんごの灯」は、祖母の教えてくれた優しさそのものだった。

今日もまた、あの香りを求めて扉がひらく。
温かい灯は、静かに、やさしく、人々を迎え入れていた。