丘の上に、小さな白い家がぽつんと建っていた。
庭にはラベンダーが揺れ、窓辺には毎朝、やさしい風が吹き抜ける。
その家に暮らしているのは、若い菓子職人の芽衣だった。
彼女が作るのは、ふんわりと空気を含んだシフォンケーキ。
口に入れた瞬間に消えてしまうような軽やかさと、心をそっと温めるような香りが評判で、町の人々に愛されていた。
芽衣がシフォンケーキを作り始めたのは、亡き祖母の影響だ。
祖母は昔、この丘の家で小さな喫茶店を開き、町の人たちに笑顔を届けていた。
とくに人気だったのが、風のように軽いシフォンケーキ。
幼い芽衣は、祖母がケーキを型から外す瞬間に立ち合うのが大好きだった。
型が外れた途端、ふわりと立ちのぼる甘い湯気。
できたてのあたたかさを両手で受け止めるような気持ちになり、毎回、胸が高鳴った。
しかし、祖母が亡くなると喫茶店は閉じられ、家も空き家になってしまった。
数年後、成長した芽衣は「もう一度、この場所に風を吹かせたい」と思い立ち、祖母のレシピノートを抱えて丘に戻ってきたのだ。
最初の数週間は失敗続きだった。
泡立てた卵白がしぼんでしまったり、焼き上がりがかたくなったりする。
祖母の文字は優しく並んでいるのに、その通りにやっても同じ味にならない。
夜になると、薄暗いキッチンで膝を抱え、祖母を思い出して泣くこともあった。
ある日の午後、風が強く吹いていた。
窓辺でレシピノートを開いていた芽衣は、ふと祖母の言葉を思い出した。
「シフォンはね、風を閉じ込めるお菓子なんだよ。“ふわふわになーれ”って気持ちで混ぜると、ちゃんと応えてくれるの」
その言葉に背中を押されるように、芽衣はもう一度キッチンに立った。
ボウルを構える手を軽くし、泡立つ白さを壊さないようにゆっくりとすくいあげ、空気を抱きしめるように混ぜ込む。
オーブンの中でケーキがむくむくと背を伸ばし、黄金色の表面がふっくらと波打つ。
焼き上がったケーキを逆さまにして冷ませば、ふわりと甘い風が部屋中に広がった。
その日、芽衣は気づいた。
大切なのは手順そのものよりも、そこに込める想いなのだと。
翌月、小さな喫茶室を開くと、町の人々が訪れ始めた。
みんな、祖母の味を覚えていて、懐かしそうに目を細めた。
「この軽さ、帰ってきたね」
お客さんのひとりがそう言った瞬間、芽衣は胸がいっぱいになった。
祖母と風が、確かにつながった気がした。
そしてある日、一冊の古い絵本を抱えた少女が店にやって来た。
表紙には、祖母の店のイラストが描かれている。
少女は言った。
「おばあちゃんがよく話してくれたの。この丘の上のシフォンケーキは、食べると“心に風が吹く”んだって」
少女の笑顔に、芽衣はそっと頷いた。
「風はね、ちゃんと続いているよ。あなたが来てくれたから、またひとつ強くなった」
シフォンケーキのやわらかな香りは、今日も丘の上で風と一緒に広がっていく。
祖母から芽衣へ、そして町の人へ。ふんわりとした優しさが、世代を超えて運ばれていく。
そのキッチンでは——今日もまた、風が生まれていた。


