ミカン農家の物語

食べ物

海を見下ろす小高い丘に、古くから続く小さなミカン農家があった。
主は五十代半ばの男性・柚木誠一。
父から畑を受け継いで二十五年。
海風が運ぶ塩気と、南に開けた日差しが育てる甘い香りに囲まれて、誠一は毎朝、日の出より早く畑に出るのが日課だった。

しかしここ数年、気候の変化で収穫量は不安定になり、近隣の農家も次々と廃業していった。
誠一の畑も例外ではなく、木々の元気が目に見えて落ちていた。
それでも彼は諦めなかった。
父が残した言葉がいつも心にあった。

――「ミカンはな、人が手を抜けば甘くなるのをやめる。けど、人が愛情をかければ必ず応える。」

ある冬の始まりの日、誠一は久しぶりに畑を訪れた娘・陽菜と歩いていた。
都会で働く彼女は、毎年この時期になると、収穫を手伝いに帰ってきてくれる。
陽菜は木の枝についたままのミカンを一つもぎ、冬の光に透かして眺めた。

「ねえお父さん。このまま続けるの、正直しんどいでしょ?」

誠一は苦笑した。図星だった。

「しんどいよ。でもな、やめられんのだ。この景色と、この畑と、一緒に生きてきたからな。」

陽菜はミカンをそっと手のひらで転がした。
濃い橙色。
その色が、彼女の中の記憶を呼び起こす。

「私ね、小さい頃、お父さんが朝から晩までここで働いてる姿、大好きだったよ。あの頃の私にとって、お父さんは“ミカンを生み出す魔法使い”みたいに見えたの。」

誠一は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。
「魔法使いはえらい年を取ったけどな。」

二人は笑った。
しかし陽菜は、ふと真顔に戻った。

「ねえ、もしよかったら…私、この畑を一緒にやりたい。仕事も辞める覚悟、もう決まってる。」

誠一の手が止まった。
驚きと嬉しさと、不安も混ざった複雑な表情になった。
「ほんとにいいのか?農家は楽じゃないぞ。朝は早いし、収益も安定しない。」

陽菜は頷いた。
「うん。でも、ここで育ったミカンの味は、どこにも負けない。お父さんから受け継ぎたい。“魔法”のやり方を。」

その言葉を聞いた瞬間、誠一の胸の奥で、長い間閉じ込めていた何かがほどけた気がした。
父から受け取った畑、その思いを次につなぐ日が、本当に来るとは思っていなかった。

翌朝、二人は少し早めの収穫作業を始めた。
海から吹く冷たい風が頬に刺さる。
それでも陽菜は笑っていた。
ミカンの皮をむいて味見をすると、驚くほど甘くて、少しだけ酸っぱかった。

「これ、ほんと美味しいね。もっとたくさんの人に食べてもらいたい。」

「そうだな。陽菜がやるなら、新しいやり方も試してみてもいいかもしれん。」

「ネットで販売したり、農園ツアーを作ったりね!」

誠一は、若い頃には思いもしなかった未来の姿を、娘の横顔の先に見た。

夕暮れ、畑は黄金色に染まった。
収穫したミカンが山のように積まれ、二人は並んで腰掛けた。

「お父さん。私、ここで生きていきたい。」

「なら、これからは二人で“魔法”を使うか。」

陽菜は嬉しそうに笑った。
海を越えて吹く風が、ミカンの木々の間を通り抜け、枝を揺らした。
まるで新しい季節の始まりを告げるように。

そしてその冬、柚木家のミカンは例年より甘く、美しく実った。
まるで、親から子へ受け継がれた想いが、果実そのものに宿ったかのように。