春の風が街に甘い香りを運びはじめた頃、小さな商店街の一角に、木の扉を持つ可愛らしい店がオープンした。
店の名前は「ミツノミヤ」。
はちみつ専門店である。
オーナーは三十歳の女性・柚木(ゆずき)みつは。
幼いころから甘いものが好きで、中でも祖母がくれた瓶詰めのはちみつは、彼女にとって特別な宝物だった。
祖母の家の裏には、昔ながらの巣箱がいくつも並ぶ小さな蜂場があった。
祖母は毎年春になると、巣箱に耳を当てながら「蜂の声はね、季節の歌なんだよ」と笑った。
その声を聞きながら育ったみつはにとって、はちみつは食べ物以上の存在だった。
自然の恵みそのもの……そう感じていた。
大学卒業後、彼女は食品会社に勤めた。
だが大量生産の現場では、祖母が教えてくれた“自然と向き合う時間”を感じることができなかった。
もっと丁寧に、もっと誠実に、蜂の恵みを届けたい。
そんな思いが募り、みつはは仕事を辞め、祖母の蜂場を引き継ぎながら、はちみつ専門店を開くことを決意した。
店づくりは一筋縄ではいかなかった。
内装、仕入れ、瓶詰め、ブランディング、そして何より蜂の世話。
季節によって巣箱の状態も変わり、蜂が弱れば巣ごと守らねばならない。
ある夏、酷暑で蜂が大量に弱り、みつはは泣きながら巣箱に氷を置いた。
「ごめんね……」その声に応えるように、次の日の朝、巣箱の中で蜂たちは少しだけ元気を取り戻していた。
そんな山と谷を越え、ついに「ミツノミヤ」はオープンの日を迎えた。
扉を押すと、ふわりと広がる自然の甘さ。
棚には、アカシア、レンゲ、そよ風の森の百花蜜、さらに柚子やクローバーを使った手作りのフレーバーはちみつが並んでいる。ラベルにはみつはが描いた蜂の小さなイラストが添えられていた。
初めての来店客は、小さな女の子を連れた母親だった。
「はちみつって種類がこんなにあるの?」と女の子が目を輝かせると、みつはは祖母がしてくれたように、瓶をひとつひとつ手に取りながら説明した。
「このアカシアはね、軽やかで紅茶によく合うの。レンゲはふんわりして、そのまま舐めても優しい味がするよ」
試食した女の子は、口いっぱいに甘さを広げながら「おいしい……」と微笑んだ。
その表情を見た瞬間、みつはの胸に温かいものが広がった。
祖母が昔くれた笑顔と重なったのだ。
口コミは少しずつ広がり、店には地元の人だけでなく、遠くから訪れる客も増えていった。
朝摘みフルーツとはちみつのペアリングイベント、季節限定の蜂蜜バター、ミツバチの観察会……みつはの想いは形となり、店はゆっくりと根付いていく。
そして秋の終わり、店の奥にそっと飾った祖母の写真に、みつはは一瓶の新作はちみつを供えた。
透き通る琥珀色のその蜜は、祖母が最後に植えたレモンの木から採れたものだった。
「おばあちゃん、やっとここまで来たよ。これからも、一緒に歩いていこうね」
その瞬間、窓から差し込む夕陽が店内を黄金色に照らした。
まるで祖母の笑顔がそばにあるように。
——こうして「ミツノミヤ」は今日も、蜜色の扉を開けるたび、誰かの心に小さな甘さを灯し続けている。

