カカオの窓と泣きたい日のケーキ

食べ物

商店街のはずれに、小さなベーカリー「カカオの窓」があった。
木の扉を押すと、カランと澄んだ鈴の音が鳴り、甘い香りが鼻をくすぐる。
その店には、ひとつだけ特別なケーキがある。
見た目は素朴なのに、なぜか一度食べた人は忘れられなくなる——チョコバナナケーキだ。

店主の夏芽は、ほんのり日焼けした頬をした、笑ったときにえくぼの出る女性だ。
毎朝五時に起き、店の奥のキッチンでバナナをつぶしながら、小さく鼻歌を歌うのが日課だった。
「今日もおいしくできますように」
そう祈るように呟きながら、完熟バナナにカカオを混ぜ、しっとりとした生地を作っていく。

夏芽がこのケーキを作るようになったのは、十年前のある出来事がきっかけだった。

当時、彼女は都会のカフェでパティシエとして働いていた。
店は有名で、お客も多かったが、次第にレシピは「効率」と「人気」のために決められるようになり、作り手の思いは置き去りにされていった。
「もっと、誰かのために作るお菓子がつくりたい」
そう思うようになった頃、彼女は祖母の訃報を受けた。

田舎町に帰ると、祖母の家には古びたレシピ帳が残されていた。
ページの端がすり切れたそのノートの中に、ひときわにぎやかな文字でこう書かれていた。

『ナツメが泣きたい日に食べるケーキ』

それが、チョコバナナケーキの原点だった。

夏芽は幼い頃、試合で負けた日も、友だちと喧嘩した日も、祖母の家の台所で泣きじゃくった。
すると祖母はいつも、熟れたバナナをつぶし、ココアの粉を混ぜ、甘い香りを漂わせてケーキを焼いてくれた。
「泣いてもいい。でもね、おいしいものを食べたら、また明日がんばれるよ」
その言葉は、夏芽の宝物だった。

レシピ帳を抱えて町を歩くうち、かつて祖母がよく座っていた商店街のベンチが目に入った。
そこに小さな空き店舗があることに気づいた夏芽は、ふと胸の奥が温かくなるのを感じた。

——ここでなら、祖母みたいに、人の心をあったかくできるかもしれない。

こうして「カカオの窓」が生まれ、チョコバナナケーキは看板商品になった。

ある雨の日、一人の男の子が店にやって来た。
ランドセルを濡らし、うつむいたまま、か細い声で言う。

「チョコバナナケーキ、ひとつください……」

夏芽がケーキを包んで渡すと、男の子はぎゅっと袋を握りしめたまま動かない。
「どうしたの?」と声をかけると、ぽつりぽつりと話し始めた。

クラスでうまくいかないこと。
今日、勇気を出したのに言いたいことが言えなかったこと。
悔しくて、悲しくて、どうしていいかわからなかったこと。
「でも……このケーキ食べたら、なんか元気になる気がして」
恥ずかしそうに笑った。

その言葉を聞いた瞬間、夏芽は祖母の台所の光景がよみがえり、胸が熱くなった。

「うん、きっと大丈夫。明日は今日より、ちょっとだけ良い日になるよ」

男の子は泣きそうな顔でうなずき、雨の中を帰っていった。

それから数年後。
高校生になったその男の子——陽斗は、再び店の扉を開いた。

「夏芽さん、聞いてほしいことがあるんだ」
晴れやかな表情の陽斗が差し出したのは、大学の推薦合格通知だった。

「今日、どうしてもこのケーキが食べたくて。あの日みたいに」

夏芽は驚きと嬉しさで胸がいっぱいになった。
祖母がくれたケーキが、今度は自分の手を通じて、誰かの背中を押している。

「陽斗くん、おめでとう。本当に、よかったね」

陽斗は照れくさそうに笑い、ケーキの香りを深く吸い込んだ。

夜、店を閉めたあと、夏芽はキッチンでそっとレシピ帳を開いた。
祖母の字は、少し薄れてしまっていたけれど、ページの温もりは変わらない。

——おばあちゃん、私、ちゃんとできてるかな。

誰にも聞こえない声で呟きながら、夏芽は明日の生地を仕込み始める。

甘くて、あたたかくて、泣きたい日も笑えるようになるケーキ。
その香りは、今日もまた静かに町を包み込んでいった。