卵焼き屋「たまゆら」の朝

食べ物

駅前の商店街を歩くと、だしの香りがふわりと漂ってくる──それは、今年の春にオープンした卵焼き専門店「たまゆら」からだった。
店主の佐伯遥は、開店準備のため、まだ夜が明けきらぬ午前五時に店へやって来る。
シャッターを上げる音が響くと、それは彼女にとって新しい一日の始まりを告げる合図だった。

遥が卵焼き屋を開くと決めたのは、一年前の冬のことだ。
会社勤めに疲れ、何か“自分の味”で勝負したいと思っていた時、ふと祖母の台所を思い出した。
小さい頃、祖母が毎朝焼いてくれた卵焼き。
甘いのに少しだけ塩気があって、ふわふわで、食べると胸の奥がほっと温かくなる。
祖母が亡くなった後、その味を再現しようと何度も卵を割っては焼き、焼いては食べ、ようやく納得できる味に辿り着いた。
「この味で、誰かを少しだけ幸せにできるなら」──そう思ったのが始まりだった。

開店に向けて、遥は商店街の会合に顔を出し、近所の店主たちに挨拶して回った。
最初は「卵焼きだけで店をやるのかい?」と驚かれたが、試作品を振る舞うと誰もが笑顔になった。
八百屋の杉本さんは「朝の弁当に入れてやりたい」と言い、花屋の美咲さんは「頑張り屋さんねえ」と励ましてくれた。
開店前日、店先に飾られた小さな花束に添えられていたメッセージカードには、美咲の丸い文字で「あなたの卵焼き、きっとたくさんの人を元気にしますように」と書かれていた。
それを見たとき、遥は胸がじんわり熱くなり、深く息を吸った。

そして迎えた開店初日。
早朝から並んだお客は三人。
決して多いとは言えないが、遥にとっては宝物のような三人だった。
「甘めのと、出汁しっかりのと、どっちがおすすめ?」と聞いたのは、近所の高校生の女の子。
遥は少し迷ってから、「初めてなら、よかったら甘めのほうを」とすすめた。
それは祖母の味を最も忠実に再現した一本。
焼きたてを手渡すと、少女はぱくりと一口食べて、目を丸くした。
「ふわふわ……!なんか、懐かしい味がする」
その一言に、遥は胸の奥がきゅっと締めつけられた。
祖母がそこにいて、少女を見守っているような気さえした。

評判は少しずつ広まり、昼過ぎには常連客もできた。
中でも、毎日やってくる背広姿の男性は、黙って出汁巻きを一つ買うだけだったが、帰り際に「これを食べると、午後の会議も頑張れる」とぽつりと言った。
その後も、母親に頼まれて買いに来る小学生、塾帰りに立ち寄る中学生、仕事終わりの看護師など、店の前にはいろんな人生が交差した。
卵を焼くたび、自分の作る小さな黄色い一本が、誰かの一日の途中にそっと寄り添っていくようだった。

ある雨の日の午後、商店街の端にある古い電気店の店主、東さんが店を訪れた。
「今月で店を閉めることにしたんだ」と静かに告げる東さんの手には、小さな紙袋があった。
中には、木製の看板がひとつ。
「昔、知り合いに作ってもらったものだ。『商売は心だ』ってね。あんたの店を見てたら、この言葉が似合うと思った」
遥は言葉が出なかった。
ただ、丁寧に両手でその看板を受け取り、胸に抱きしめた。
その日の夜、店のカウンター横に看板を飾ると、不思議と店の空気が少しあたたかくなった気がした。

季節が巡り、開店からちょうど一年。
まだ薄暗い朝の商店街に、シャッターの上がる音が響く。
「今日も、いい一日になりますように」
遥はそう小さく呟き、卵を割る。
鮮やかな黄色がボウルに広がり、出汁を合わせると優しい香りが立ち上がる。
祖母に教わったように、指先で菜箸を転がし、ふわりとした層を重ねていく。
焼き上がった卵焼きを巻きすで整えながら、遥は思う。

──卵焼きひとつで世界が変わるわけじゃない。
でも、誰かの心がほんの少し柔らかくなるなら、それで十分だ。

カウンターに並べられた出来たての卵焼きは、朝日のように輝いていた。
今日もまた、「たまゆら」の一日が始まる。