幼いころから、紗良はクレヨンが大好きだった。
新品の箱を開いたときに広がる、ほのかな蝋の匂い。
丸くて少し頼りない、けれど手になじむ形。
そして何より、紙の上を走らせたときに生まれる、あの鮮やかな色彩。
大人になってからもその気持ちは変わらなかった。
仕事で疲れた日も、気持ちが沈んだ日も、紗良は机の引き出しから小さなクレヨンセットを取り出す。
お気に入りのスケッチブックを開き、ただ思いつくまま、線を描き、色を重ねる。
それだけで胸の奥がふっと軽くなるのだった。
ある日、紗良は商店街の外れにある古い文房具屋を見つけた。
店先には、今では珍しい木箱入りのクレヨンや、廃番になった色鉛筆が並んでいる。
懐かしさに胸が跳ね、思わず扉を開けると、店内は時間が止まったように静かだった。
「いらっしゃい。」
奥から顔を出したのは、白髪まじりの店主だった。
彼は紗良の視線が、壁に飾られた古いクレヨンに吸い寄せられているのを見て、にこりと笑った。
「それは昭和の終わり頃のものだよ。今では作ってない色もある。」
紗良は驚きながら、一本一本眺めた。深い藍色、少しくすんだオレンジ、木漏れ日のような黄緑。どれも現行品にはない表情をしていた。
「色って、生きているみたいですね。」
ふと漏れた言葉に、店主はゆっくり頷いた。
「そうだよ。同じ“青”でも、その時代、作った人、触った人で表情が変わる。君はその違いが分かる人みたいだ。」
胸の奥が温かくなった。
紗良はその日、ずっと探していた色――“霧桃色”と呼ばれる淡いクレヨンを手に入れた。
それは幼いころ母と一緒に描いた絵に使っていた色で、いつの間にか見かけなくなっていたものだ。
家に帰ると、紗良はさっそく霧桃色のクレヨンを取り出し、紙にそっと走らせた。
柔らかくて、少しだけ涙ぐみたくなる優しい色が紙に広がる。
その瞬間、胸の奥に眠っていた記憶がよみがえった。
母と並んで、窓際で絵を描いた日々。
夕陽に染まる部屋のなかで、一緒に笑っていた声。
もう会えなくなってしまったけれど、確かにあった温もり。
「ありがとう、また会えたね。」
紗良はつぶやき、そっと微笑んだ。
数日後、紗良はふと思い立ち、文房具屋に戻った。
店主は変わらない穏やかな顔で迎えてくれた。
「実は、ここを手伝ってくれる人を探していてね。」
店主の言葉に、紗良の胸が高鳴った。
絵を描くことは趣味だけれど、クレヨンの魅力を誰かに伝えたいという気持ちはずっと心のどこかにあった。
そして誰かが新しい色と出会う瞬間をそばで見られるなら――それはきっと素敵なことだ。
「やってみたいです。」
紗良は迷いなく答えていた。
こうして紗良は、古い文房具屋で働き始めた。
クレヨンの配置を考えたり、子どもたちに色の混ぜ方を教えたり、古い画材の魅力を語ったり。
毎日はまるで、色でできた宝箱のようだった。
ある日の夕方、小さな男の子が店に来て言った。
「ぼく、お母さんの誕生日に絵を描きたいんだ。優しい色って、どれかな?」
紗良は少し考えてから、霧桃色のクレヨンを手渡した。
「これね、誰かを想う気持ちがふわっと広がる色なんだよ。」
男の子は目を輝かせて頷いた。
その姿を見ながら、紗良は気づく。
色は、時を越えて誰かの心を照らし続ける。
そして今度は自分が、その橋渡しをする番なのだと。
クレヨンの箱を開くたびに、紗良は小さく息を吸う。
今日もまた、新しい物語が色とともに始まる気がして。


