アパートの一室。
陽の当たる窓辺に、縦長の水槽がひっそりと置かれている。
透明な水の中では、小さなエビたちが脚をせわしなく動かし、砂の上を歩いたり、ガラス面をつまつましたりしていた。
この水槽を毎朝覗き込むのが日課の人物――由奈(ゆな)は、今日も小さな世界の住人たちに「おはよう」と声をかけた。
エビを飼い始めたのは、ふと立ち寄ったペットショップで心を奪われたからだ。
ガラスのケースの中で、赤や青の小さなエビが、まるで宝石のように輝いていた。
その愛らしい仕草と儚げな存在感に、由奈は胸をつかまれた。
それからというもの、休日には水槽のレイアウトを変えたり、水草を植え替えたりして、まるで自分だけの庭を手のひらの上に作るように楽しんでいた。
ある日、職場で少し嫌なことがあり、気持ちの沈むまま帰宅した由奈は、水槽の前に座り込んだ。
「みんなはいいな、何も考えずに、のんびり泳いで…」
愚痴をこぼしながら眺めていると、小さなエビが一匹、砂の下からゆっくり現れた。
殻を脱ぎたてなのか、身体は淡く透き通っている。
「脱皮したの?」
そう呟いた瞬間、由奈は少し笑った。
エビは脱皮を繰り返しながら大きくなる。
弱っているように見えるその瞬間こそ、成長の証。
「そっか。私も脱皮の途中なのかもしれないな」
その思いは、沈んだ心にじんわりと温かさをくれた。
水槽の管理は簡単ではない。
水質の変化や温度、餌の量……気を抜くと、エビたちは小さな身体で影響を受けてしまう。
しかし由奈はそれを「大変」とは思わず、むしろエビたちのためにできることがあるのが嬉しかった。
ある晩、買い物帰りの手には、水草の新しいポットと小さな流木。
「これでみんな、隠れ家が増えるよ」
水槽にゆっくり手を入れ、レイアウトを整えていくと、エビたちは好奇心いっぱいに集まってきた。
まるで「次は何を置くの?」と話しかけてくるように。
季節が巡り、春が近づいた頃。
由奈はふと水槽を見ると、抱卵したエビを見つけた。
透き通る身体の内側に、小さな黄色い卵が揺れている。
「すごい……」
心臓が高鳴った。
自分の育ててきた環境で、新しい命が宿ったのだと思うと、その美しさに胸がいっぱいになる。
数週間後、小さな稚エビが砂の上をぴょん、と跳ねた。
肉眼では見落としそうなほど小さく、けれど確かにそこに命があった。
由奈は思わず息を止め、そっと両手を合わせて見守った。
「生まれてきてくれて、ありがとう」
その瞬間、水槽の世界がいっそう広く、輝いて見えた。
エビを飼うことは、由奈の生活に“ゆっくりと進む時間”という贈り物をくれた。
忙しくても、水槽を覗けば透明な水の流れが心を鎮め、エビたちの細やかな仕草が癒してくれる。
そして何より、彼らは由奈に教えてくれた――
「成長は目に見えないところで、少しずつ進んでいる」ということを。
その夜、由奈は小さな水槽の灯りを点けて、カーテンの隙間から差し込む月明かりを見上げた。
水槽の中では、小さな影がふわりと舞い、静かに世界を巡っている。
「明日も、またみんなと一緒に頑張ろう」
そう呟くと、由奈の胸には、水の音のような優しい決意が満ちていった。
小さな水槽の中には、大きな世界があった。
そしてその世界は、今日も由奈の心をそっと照らしている。


