レザーウッドハニーの物語

面白い

タスマニアの深い森に、ひときわゆっくりと時を刻む木がある。
レザーウッド――その名のとおり、革のように丈夫な樹皮を持ち、気まぐれに花を咲かせる木だ。
森に住む人々は昔から、その花が開く瞬間を「森が呼吸する時」と呼んだ。
なぜなら、レザーウッドの花が咲かない年もあるからだ。

その森のはずれに、小さな養蜂家の家があった。
主人の名はエミル。
若いころに世界中を旅して蜂を学び、最後に辿り着いたのが、レザーウッドが群生する静かな谷だった。
ここで採れる蜂蜜は、ほかにはない香りを持つ。
「森の記憶が凝縮された蜜」――そう語るのがエミルの口癖だった。

エミルには、ひとり娘のリナがいた。
リナは幼いころから蜂の羽音が子守歌だった。
けれど大人になるにつれ、森の暮らしが窮屈に感じるようになっていった。
友人たちは街へ出て、華やかな仕事に就いていく。
リナだけが、父の隣で古びた巣箱を磨いている。

ある春の朝、エミルが珍しくそわそわしていた。
「今年は咲く気がするんだ。風が甘い匂いを運んでいる」と、目を輝かせる。
リナは半ば呆れつつも、父の期待が伝わってくるのを感じていた。

数日後、森は静かにざわめいた。
夜明け前、リナが巣箱の点検で森に向かうと、空気がひんやりと重かった。
霧の中、白い点のようなものが浮かんでいる。
近づくと、それはレザーウッドの花だった。
夜明けの光を浴びて、ゆっくり開いていくその花は、まるで深い眠りから目覚めた森の心臓のようだった。

リナは息を呑んだ。こんな光景を、幼いころ以来見ていなかった。
ふと、背後で小さな羽音がした。
エミルの蜂たちが、まだ薄暗い森の中をまっすぐ花へ向かっていく。
花の蜜を吸うたび、蜂の羽が淡い光を反射し、森は金色に揺れた。

その日から数週間、エミルもリナも昼も夜も働きづめだった。
巣箱は次々と重くなり、蜜はゆっくりと濃くなる。
レザーウッドハニーは採れる量が少なく、天候に左右されやすい。
その分だけ、一滴一滴に価値があった。

やがて収穫の時が来た。
絞りたての蜜は薄い琥珀色で、舌の上で花の香りが広がり、喉に落ちる頃にはスパイスのような深みが顔を出す。
リナは改めて驚いた。
「こんな味、街にはないわね」とつぶやく。エミルは笑って頷いた。

「リナ、今年の蜜は、お前に任せようと思うんだ。どう使うかは自由だ」

唐突な言葉に、リナは言葉を失った。
けれど心のどこかで、ずっと自分が何を望んでいるか知っていた。
街へ行くことよりも、この森の時間、この蜂たちの営み、この香りを守りたいと。

リナは瓶を手に取り、ひとつずつ丁寧にラベルを貼った。
ラベルには小さく「森が呼吸した年」と書いた。
エミルの言葉が、自然と蘇ったのだ。

こうしてレザーウッドハニーは、谷を越えていくことになった。
けれどその味わいの奥にあるのは、森の気まぐれでも、蜂の努力でもない。
父と娘が同じ時間を分かち合い、森が再び呼吸した奇跡の年の記憶だった。

そしてリナは気づいた。
レザーウッドハニーとは、森と人と蜂がそっと寄り添った、年に一度かもしれない優しい物語そのものなのだと。