冷蔵庫の奥に、小さなガラス瓶がある。
中には、つやつやと光る筋子が詰まっている。
美咲はその瓶を見つめながら、ふと笑みをこぼした。
——母の味だ。
子どものころ、秋が深まると、台所にはいつも生筋子の匂いが漂っていた。
母が白いエプロンをかけ、ぬるま湯の中で丁寧に筋をほぐしていく。
ぷちぷちと音を立てて膜が裂け、赤い粒が流れ出す。
その光景を、幼い美咲は息をひそめて見つめていた。
「ほら、美咲。これが宝石みたいでしょ?」
母が笑いながらスプーンを差し出すと、美咲は目を輝かせて頷いた。
温かいご飯にのせて一口食べると、塩気と旨味が口いっぱいに広がった。
——その瞬間、世界でいちばん幸せだった。
だが、母は数年前に亡くなった。
冷たい冬の朝、病室で静かに息を引き取った。
それ以来、美咲は筋子を買わなくなった。
スーパーの鮮魚コーナーを通るたび、あの透明な赤に胸を刺されるようで、足がすくんだ。
しかし今年の秋、母の三回忌が近づくころ、ふとしたきっかけで美咲は手を伸ばしてしまった。
会社帰り、立ち寄った小さな市場で、「生筋子ありますよ」と声をかけられたのだ。
透明なパックの中で、粒がきらめいていた。
美咲は手のひらが震えるのを感じた。
——あの日の台所の光景が、脳裏に蘇る。
帰宅後、台所にぬるま湯を張る。
母がしていたように、そっと筋をほぐす。
慣れない手つきで粒を落としていくと、水面に赤い粒が浮かび、少しずつ沈んでいく。
そのひと粒ひと粒に、記憶が宿っているような気がした。
漬け汁を作り、瓶に詰める。
冷蔵庫にしまう前、美咲はしばらく眺めていた。
光を受けて、粒が小さく輝いている。
翌朝、炊きたてのご飯に筋子をのせた。
最初のひと口を口に運ぶと、思わず涙がこぼれた。
しょっぱさと懐かしさが入り混じり、胸の奥が温かくなる。
「……お母さん、やっぱりおいしいね」
独り言のように呟くと、窓の外で風が吹いた。
それから美咲は、少しずつ筋子作りを続けるようになった。
休日の午前中、窓を開け放ち、台所で手を動かす。
瓶が増えるたび、部屋に母の面影が蘇る。
いつの間にか、それは彼女の日常の一部になっていった。
ある日、会社の同僚・遥が遊びに来た。
「この瓶、かわいいね。中身、いくら?」
「筋子。自分でほぐして漬けたの」
遥が驚いて目を丸くする。
「すごい! お母さんに教わったの?」
美咲は少し黙って、頷いた。
「うん。小さいころね。……母が亡くなってから、ずっと作れなかったけど、またやってみたくなったの」
遥は優しく笑った。
「それって、きっといいことだよ。食べるって、生きてる証拠だから」
その言葉に、美咲は胸がじんとした。
——そうかもしれない。
母の味を思い出すたび、私は母と少しだけ話しているのかもしれない。
次の休日、美咲は新しい瓶を買いに出かけた。
瓶を並べる棚の前で、小さな女の子が母親の手を引っ張っていた。
「ママ、あの赤いの、きれい!」
母親は笑って、「筋子だよ」と答えた。
その光景に、美咲の胸の奥で何かがふわりとほどけた。
帰り道、秋風が頬を撫でた。
母の笑い声が、どこかで聞こえた気がした。
家に帰り、冷蔵庫の瓶を取り出す。
赤い粒たちは、今日も変わらず光を宿している。
美咲は炊きたてのご飯をよそい、筋子をそっとのせた。
そして、静かに手を合わせる。
「いただきます」
その声は、どこか懐かしいぬくもりの中へと溶けていった。

