香澄(かすみ)は、昼下がりの静かなキッチンで、トマトを湯むきしていた。
赤い皮がするりと剥けるたび、心の中のざらつきが少しずつ溶けていくような気がした。
包丁の音、オリーブオイルの香り、そして静けさ。彼女の一日は、こうして始まる。
トマトパスタは、亡き祖母から教わったレシピだった。
「焦らないでね。トマトは怒ると酸っぱくなるのよ」
小さな頃、祖母がそう言って微笑んだのを覚えている。
湯気の中で、トマトの赤がいっそう深く輝いていた。
香澄は大学を卒業してから、都心の広告代理店に勤めていた。
忙しくて、ほとんど料理をする暇もなかった。
夜遅く帰って、コンビニのパスタをレンジで温めながら、ふと祖母の言葉を思い出すことがあった。
「焦らないでね」
でも、焦らないわけにはいかなかった。
締切、数字、評価。
いつしか、トマトを刻む音も、パスタを茹でる香りも、すっかり遠ざかっていた。
転機は、祖母の家を片づけに帰省した時だった。
古い棚の奥から、手書きのレシピノートが出てきた。
油のしみや、トマトソースの赤い跡が残っている。
ページの端に、丸い文字でこう書かれていた。
「香澄へ。いつかあなたが疲れたら、このソースを作りなさい。」
それだけで、涙がこぼれた。
会社を辞めたのは、その数か月後のことだ。
今は祖母の家を改装して、小さな食堂を開いている。
名前は〈カンパニャ〉。
イタリア語で「田舎」という意味らしい。
メニューはひとつだけ――トマトパスタ。
湯気の向こうで、若いカップルが笑っている。
常連の老夫婦は、今日も同じ席で肩を寄せ合っていた。厨房の中からその様子を眺めると、香澄の胸に温かいものが灯る。
彼女のトマトソースは、甘くて、やさしくて、少しだけ涙の味がする。
煮込みの火を弱めると、時計の針が午後三時を指していた。
静かな時間。外では、風が木の葉を揺らす音。
そのとき、入口のベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
香澄が顔を上げると、見覚えのある男性が立っていた。
高校時代の同級生、翔太(しょうた)だった。
「久しぶりだな。ここ、君のお店だったんだね」
彼は照れくさそうに笑った。
注文を聞くまでもなく、香澄は鍋に手を伸ばした。
「トマトパスタでいい?」
「もちろん」
オリーブオイルを温め、にんにくの香りが立ちのぼる。
トマトをつぶす音、ソースが弾ける音。
すべてのリズムが、懐かしい旋律のように響いた。
皿に盛りつけて差し出すと、翔太はゆっくりとフォークを回した。
「……うまい」
その言葉を聞いた瞬間、香澄の胸に何かが満ちた。
翔太が続ける。
「こんなにやさしい味、ひさしぶりに食べたよ。誰かのために作ったみたいだ」
香澄は笑った。
「そうかも。おばあちゃんのため、かもしれない」
午後の日差しが窓を透け、テーブルの上でトマトの赤がきらめく。
翔太が言う。
「また来てもいい?」
香澄は、ほんの少し間をおいて頷いた。
「うん。焦らず、ゆっくり食べに来て」
湯気の向こう、祖母の笑顔が一瞬、見えたような気がした。
香澄は小さくつぶやく。
「焦らないでね」
その言葉は、トマトソースの香りに溶けて、午後の光の中へ消えていった。


