ビスケットの香り

動物

犬の肉球の匂いを嗅ぐのが好きだと言うと、たいていの人は少し驚いた顔をする。
けれど、私にとってそれは、心の奥にあるやさしい記憶を呼び起こす香りなのだ。
その匂いに初めて気づいたのは、小学三年生のとき。
その日、母が拾ってきた子犬をタオルに包んで私の膝にのせてくれた。
白い毛の先がうっすら茶色く、まだ目の色も定まっていないほどの小さな命。
その子を「ビスケット」と名づけた。
理由は単純。
肉球が焼きたてのクッキーみたいな匂いがしたからだ。

学校から帰ると、ランドセルを置くより早く、私はビスケットのそばに駆け寄った。
肉球を指先でそっとつまんで鼻を寄せると、日なたの温もりと土の香りが混じったような匂いがした。
夏の日には少し香ばしく、冬の夜はミルクのようにやさしい。
ビスケットの成長とともに、その香りも少しずつ変わっていったけれど、私にはいつだって安心の匂いだった。

ビスケットは、私が中学を卒業するころにはすっかり立派な犬になっていた。
散歩の途中で知らない人に撫でられてもおとなしく、私が泣いているときには静かに寄り添ってくれる。
受験に落ちたとき、恋人にふられたとき、そして父が入院したとき。
どんな夜も、ビスケットの肉球の匂いを嗅ぐと、不思議と涙が止まった。
まるで、「大丈夫、ここにいるよ」と言われているようだった。

年月が過ぎ、私が就職して一人暮らしを始めたころ、ビスケットは十五歳になっていた。
実家に帰るたび、足取りが少しずつ弱くなっているのを感じた。
ある冬の夜、母から電話があった。
「ビスケット、もうあまり歩けなくなっちゃったの」
胸の奥がしんと冷たくなる。
仕事を早退し、新幹線に飛び乗った。
実家に着いたとき、ビスケットは毛布にくるまれて眠っていた。
目を開けて、かすかに尻尾を振る。
その小さな動きに涙があふれた。
私はそっと彼の前足を両手で包んだ。
かすかに残る、あの香り。
焼きたてのビスケットのような、懐かしい匂い。
「ありがとう」
そうつぶやいた瞬間、彼はゆっくりと息を吐き、眠るように目を閉じた。

それから二年。
私は今、動物病院の受付で働いている。
犬たちが出入りするたび、あの香りがふと漂ってくる。
子犬の肉球を嗅いで笑う子どもを見ると、胸の奥が少し熱くなる。
仕事の帰り道、ふと思い立って小さなトートバッグの中を探る。
そこには、ビスケットの首輪のチャームが入っている。
手のひらに包むと、あの日の温もりが蘇るようだ。

ある日、病院に一匹の保護犬が運ばれてきた。
小柄で白い毛にうっすら茶色が混じる。まるでビスケットの小さい頃のようだった。
ケージの中でおびえるその子に、私はそっと手を伸ばした。
肉球に指が触れる。
あの香りがした。
ほんの少し、甘くてやさしい、あの懐かしい匂い。
気づいたら、涙が頬を伝っていた。
「大丈夫。あなたはもう、ひとりじゃないよ」

その子を私は「ビスケ」と名づけた。
家に帰ると、ビスケは私の足元で丸くなって眠る。
寝息に混じって、ほんのりと漂うビスケットの香り。
私は今日も、その匂いを胸いっぱいに吸い込みながら思うのだ。
犬の肉球の匂いは、ただの匂いなんかじゃない。
それは、やさしさと時間と、永遠に消えない絆の香りなのだ。