白亜の約束

面白い

海沿いの小さな町、潮風町。
中学校の理科教師・佐藤陽介は、休日になるとスコップとブラシを手に丘の上へ向かう。
そこは町外れの崖地で、古い地層が顔を出している。
彼にとって、それは静かな祈りの場所だった。

子どもの頃から陽介は石が好きだった。
川原で拾った小石を磨き、模様を眺める時間がたまらなく愛おしかった。
中でも祖父に連れられて初めて化石を見つけた日のことは、今でも鮮明に覚えている。
白い貝のかけらが泥の中から顔をのぞかせた瞬間、「時間のかけらを掘り出した」ような感覚が胸に広がったのだ。

教師になった今でも、休日に化石を掘る癖は抜けない。
多くの人にとっては、地味で退屈な趣味に見えるかもしれない。
しかし陽介にとってそれは「時間と対話する行為」だった。
数千万年前の命が、静かに眠る土の中から顔を出す瞬間——それは、誰かの息遣いを遠くから聞き取るような感覚だった。

ある春の日、丘でスコップを入れていると、小学生くらいの女の子が声をかけてきた。
「先生、何してるの?」
「化石を探してるんだ。昔の生き物の骨や貝の跡が、この辺にはたくさんあるんだよ」
「ほんとに?見つかるの?」
陽介は笑いながら、ブラシで丁寧に泥を払った。
すると、小さなアンモナイトの渦巻きが現れた。
女の子は目を丸くした。
「わあ!お菓子みたい!」
「そうだね。でもこれは一億年前のお菓子だ」
その言葉に、少女は笑い声を上げた。

その日から、少女——名前は美咲——は毎週のように陽介のもとを訪れるようになった。
両親が共働きで家にいる時間が少ないらしく、陽介は自然と彼女の話し相手になった。
化石掘りを教えながら、陽介はいつしか自分が子どもの頃、祖父と過ごした時間を思い出していた。

ある夕方、美咲が小さな石を差し出した。
「これ、化石?」
陽介は受け取って目を凝らした。
それはただの泥岩にしか見えなかったが、端の方にほんの小さな筋の模様があった。
陽介の心が一瞬、高鳴った。
「……もしかしたら、魚の骨かもしれない」
「ほんと?」
「うん。よく見つけたね」
美咲は誇らしげに笑った。

その瞬間、陽介は思った。
——きっと祖父も、あの時こんな気持ちだったのだろう。

季節が夏に変わるころ、町の教育委員会が丘の一帯を立入禁止にすることを決めた。
崖崩れの危険があるという理由だった。
陽介はやむなく、最後の発掘をすることにした。
美咲も誘った。

その日、夕暮れの光が斜面を金色に染めていた。
「先生、ここで最後なの?」
「そうだね。でも、いつか別の場所でも探せるさ」
美咲は少し寂しそうにうなずいた。
二人は黙ってスコップを動かした。
その時、陽介の刃先が何か固いものに当たった。
慎重に泥を払うと、そこには見事なアンモナイトの化石が姿を現した。
渦を巻いた殻は、夕陽を受けて淡く光っていた。

「……きれい」
美咲の声が震えていた。
陽介は頷き、その化石を彼女の手に乗せた。
「これは君の発見だ。君がいなかったら、見つからなかったと思う」
「でも、先生が掘ったんだよ」
「いや、僕はただ掘ってただけさ。君がここに来てくれたから、この時間ができたんだ」

風が吹き抜け、二人の髪を揺らした。
丘の上では、波の音が遠くで響いていた。

陽介はその日を境に、発掘を一旦やめた。
だが、授業の中で化石の話をするたび、美咲のきらめく瞳が思い浮かぶ。
そして、教室の隅の棚には、あのアンモナイトの化石の写真が飾られている。
額の裏には、小さくこう書かれていた。

——「時間は消えない。掘り出す人がいれば、また息をする。」

陽介は今日も黒板にチョークを走らせながら、遠い過去の鼓動に耳を傾けている。