冬のはじまりを告げる風が吹いた朝、花は引き出しの奥から古い手袋を取り出した。
生成りの毛糸で編まれた、指先まで柔らかく包みこむような手袋。
右の親指のあたりに少しほつれがあり、毛玉もところどころに浮かんでいる。
けれど、その小さな手袋は、彼女にとって特別な思い出が詰まった宝物だった。
五年前の冬、花は地元の小さな編み物教室に通い始めた。
仕事で失敗ばかりしていた頃で、夜遅くまでパソコンに向かう生活に疲れきっていた。
そんなとき、通勤途中に見かけた「編み物教室」の小さな看板が、なぜか心に引っかかったのだ。
教室には、白髪まじりの先生と、数人の年配の女性たちがいた。
湯気の立つ紅茶と、毛糸玉のやわらかい匂い。
花は不器用ながらも、少しずつ編み針の動きに慣れていった。
そのうち、先生が言った。
「次は手袋を作ってみましょう。大切な人の手を想いながら編むと、きっとあたたかいものができますよ」
花にはそのとき、特に「大切な人」という存在はいなかった。
けれど、なぜか思い浮かんだのは、毎朝すれ違う郵便配達の青年だった。
赤いバイクにまたがり、寒さで頬を真っ赤にして、それでも明るく「おはようございます!」と笑う青年。
彼の手は、いつも指先がかじかんでいて、見ているだけで痛そうだった。
——あの人に、手袋を渡せたら。
そんな気持ちで、花はひと目ひと目に想いを込めて編んだ。
仕上がった手袋は、ほんの少し不格好だった。
右の親指がきつくなりすぎて、縫い目が引きつっている。
それでも花は、心をこめて小さな包みにして、郵便受けの横にそっと置いた。
「いつもありがとうございます」とメモを添えて。
次の日。
ポストの中に、赤いリボンで結ばれた小さな封筒が入っていた。
中には一枚のメッセージカード。
「ありがとうございます。とても温かいです。大切にします」
それから、花と青年は毎朝、笑顔で挨拶を交わすようになった。
寒い朝ほど、彼の手にはあの手袋がはめられていた。
春が来る頃、彼は転勤で別の町に行くことになったと聞いた。
別れの朝、青年は言った。
「この手袋、ずっと使います。きっと、この冬のこと、忘れません」
それ以来、花は新しい手袋を編まなくなった。
けれど、今年の冬、久しぶりにその手袋を手に取ってみたのだ。
少し糸をほぐし、新しい毛糸で修繕を始めると、針の音が懐かしく響いた。
窓の外では、雪が静かに降り始めている。
その日の夕方、ポストに一通の手紙が届いた。
見覚えのある、丁寧な字。
差出人の名前に、花は思わず息をのんだ。
——あの郵便配達の青年からだった。
「お元気ですか。覚えていてくださるでしょうか。
あの手袋、今でも大切に使っています。
けれど、少しほつれてきてしまって……
もしよかったら、またあなたに直してもらえませんか」
花は、手紙を胸に抱きしめた。
窓の外の雪が、街灯の光を受けてきらきらと輝く。
右の親指のほつれを撫でながら、彼女は小さく笑った。
——また、編める。今度は、二人の手のために。
花は新しい毛糸を取り出し、ゆっくりと針を動かしはじめた。
かつてひとりで編んだ手袋は、今度こそ、もう一人の誰かと共に暖めるために。
外では、冬の風がまた優しく窓を叩いた。


