豆苗の窓辺

食べ物

春の光が差し込む台所の窓辺に、ひと鉢の豆苗が置かれている。
ガラス越しに揺れるその緑は、まるで小さな森のようだった。

奈緒は、数週間前にスーパーで買った豆苗を食べたあと、残った根を水につけておいた。
最初はただの気まぐれだった。
けれど、数日でまた新しい芽が伸び始め、柔らかな緑が顔を出したとき、奈緒は小さな奇跡を見た気がした。

「また会えたね」

つぶやきながら、奈緒は霧吹きで水をあげた。
朝の光が水滴に反射して、豆苗の葉を輝かせる。
その光景は、彼女の部屋で唯一“生きている”感じを与えてくれるものだった。

奈緒は数か月前に一人暮らしを始めた。
最初は自由が楽しかったが、夜の静けさが増すほど、家の広さが心に沁みた。
忙しい仕事と、誰もいない部屋。
疲れて帰ってくるたびに、豆苗の緑だけが迎えてくれる。

ある朝、いつもより早く起きて窓を開けると、春の風が豆苗を揺らした。
奈緒はコーヒーを飲みながら、ふと思った。

「この子も、ずっと頑張ってるんだな」

たった一度、根を残されただけで、また光を求めて伸びていく。
その姿は、奈緒の心に静かに響いた。

***

その週末、奈緒は豆苗を収穫した。
炒め物にして、ひとりの夕食を彩る。
柔らかく、みずみずしい香りが口に広がった。
けれど、食べ終えたあと、彼女はまた迷う。
――根を捨てるべきか、それとも。

結局、奈緒はまたガラスの器に水を入れた。
何度も再生できるとは限らない。
でも、少しでも緑が戻るなら、それでいいと思った。

日を追うごとに、豆苗の芽はまた少しずつ顔を出した。
以前よりも細く、ゆっくりと。
けれど確かに、命はそこにあった。

「私も、少しずつでいいんだよね」

奈緒はそう言って、朝の豆苗に笑いかけた。

***

六月のある日。
突然の大雨が降り出した。
仕事帰りの奈緒はびしょ濡れで家に帰り、すぐに窓辺の豆苗を見た。
強い雨に打たれ、少し倒れてしまっている。

タオルで体を拭くより先に、奈緒はそっと器を持ち上げた。
葉のひとつひとつを指でなでながら、形を整える。

「大丈夫。すぐ元通りになるよ」

彼女は豆苗の横に、小さな支柱代わりの割り箸を立ててやった。
まるで寄り添うように。

翌朝、雨が止み、光が戻った。
豆苗はゆっくりと支柱に体を預け、再び上へと伸びていた。
その姿を見て、奈緒は自分の心が少し軽くなるのを感じた。

***

夏が来るころ、奈緒はベランダに小さなプランターを置いた。
豆苗の横に、バジルやミントの苗も並んだ。
窓辺の一角が、いつのまにか小さな庭のようになっていた。

「ここが、私の森だね」

そう言って笑う奈緒の声に、風鈴がやさしく応えた。

あの日、気まぐれで水に浸けた一株の豆苗。
それが、彼女に“生きるリズム”を思い出させてくれた。

朝、光を浴びて少し背筋を伸ばす。
夜、静かに息を整える。
人も植物も、同じように光を探して生きている。

奈緒は今日も霧吹きを手に取り、窓辺に立つ。
その指先から零れた雫が、豆苗の葉に触れてきらりと光った。

それはまるで、彼女の心の中に咲いた小さな希望の芽のようだった。