レモンゼリーの午後

食べ物

春の光が、窓辺のカーテンを透かしていた。
由美は、静かにスプーンを手に取り、小さなガラスの器の中のレモンゼリーをすくった。
黄色い光を閉じ込めたようなそのゼリーは、ひとくち口に入れると、甘酸っぱくて、どこか懐かしい味がした。

毎週日曜日の午後、由美はこのレモンゼリーを食べる。
それが、彼女の小さな ritual――儀式のような時間だった。

ゼリーは近所の喫茶店「ミモザ」で買う。
店主の佐藤さんは、もう七十を越えているが、今でも一人で厨房に立ち、昔ながらの味を守っている。
「今日もレモンゼリーね」
と微笑む彼の声は、いつも穏やかで、どこか春の風のようだった。

「ミモザ」のレモンゼリーは、派手さこそないが、口に入れるとふんわり香りが広がり、しっかりと酸味が残る。
由美にとってそれは、子どもの頃に母が作ってくれた味にどこか似ていた。

小学生のころ、夏休みの午後に、母が台所で作ってくれたレモンゼリー。
冷蔵庫で冷やされるのを待ちきれず、まだ固まりきらない柔らかいゼリーを食べては、母に笑われた。
あの頃の母は、いつも明るく、台所に立つ背中が光に包まれていた。

だが、あの日から、ゼリーの味は少し変わってしまった。
母が病に倒れ、帰らぬ人となった日。
由美は、残されたレシピノートを抱えて泣いた。
けれど不思議なことに、ページの途中に書かれた「レモンゼリー」の文字だけは、涙でにじんでも読めた。

それから何年も、由美はゼリーを作らなかった。
ただ、甘酸っぱい香りを思い出すたび、胸がきゅっと締めつけられるようだった。

大学を卒業し、会社に入り、日々の忙しさに追われるうちに、母の味も少しずつ遠ざかっていった。
そんなある日、偶然立ち寄った「ミモザ」で、彼女はあの味に再会したのだ。

「このレモンゼリー、すごく懐かしい味がします」
思わずそう言ったとき、佐藤さんは少し驚いた顔をして、それから静かに笑った。
「それはね、私の師匠が教えてくれたレシピなんだ。もう五十年以上前かな。昔の味をそのままにしてるんだよ」

その瞬間、由美の胸の奥で、何かがやさしくほどけた。
もしかしたら、母も同じレシピを参考にしていたのかもしれない。
それ以来、由美は毎週のように「ミモザ」に通うようになった。

ある春の日。
由美が店に入ると、佐藤さんはいつもと違う表情で彼女を迎えた。
「実はね、この店もそろそろ閉めようと思ってるんだ」
「……え?」
「もう年だからね。けど、最後に誰かにこのゼリーを引き継げたらいいなと思って」

由美は、言葉を失った。
けれど、心のどこかで思った。
――自分が受け継ぎたい、と。
あの味を、母の記憶を、そして「ミモザ」の時間を、未来へと残したい。

それからの数週間、由美は仕事を終えたあと、佐藤さんに教わりながら、何度もレモンを搾り、砂糖の量を調整した。
ほんの少しの温度の違いで、香りも舌ざわりも変わってしまう。
けれど、失敗するたびに、佐藤さんは静かに言った。
「焦らなくていい。ゼリーってね、優しい気持ちで作ると、ちゃんと優しい味になるんだよ」

やがて、春が過ぎ、初夏の風が吹くころ。
由美の作るゼリーは、ようやく「ミモザ」の味に近づいた。

最後の日。
佐藤さんは、カウンターにひとつのガラス器を置いた。
そこには、由美の作ったレモンゼリーが光っていた。
「もう大丈夫だね。これからは、君の味にしていくといい」

由美は、そっとスプーンを入れた。
口の中に広がるのは、あの頃の甘酸っぱさ。
けれど、どこか新しい風も感じた。
窓の外には、ミモザの黄色い花が揺れている。

由美はその光景を胸に刻み、心の中でつぶやいた。
――お母さん、あなたの味、ちゃんと続いていくよ。

レモンの香りが、やさしく午後の部屋に満ちていった。