北の森の奥深く、雪解け水がきらめく小川のそばに、一頭のくまが暮らしていました。
名前はトモ。
冬眠から覚めたばかりの春の朝、トモは巣穴の前で鼻をひくひくと動かしました。
森の匂い。湿った土と若葉、そしてどこか甘い香り。
その香りをたどって歩くと、小さな木の箱が落ちていました。
箱の中には、くしゃくしゃになった紙切れ。
紙には、まだ幼い文字でこう書かれていました。
「くまさんへ。いつかまたあそびにいきます。まっててね。——ゆう」
トモは首をかしげました。
誰だろう、ゆうというのは。
思い出そうとして、冬眠前の出来事を少しずつたどりました。
たしか、秋の終わり、森の端で人間の子どもが泣いていたことがあった。
母親とはぐれてしまったのだ。
トモは怖がらせないように、遠くから落ち葉を踏んで音を立て、導くようにして村の方へ送ったのです。
その子が、あの「ゆう」だったのかもしれません。
トモはしばらくその紙を見つめていました。
子どもの文字は丸くて、どこか森の木の実みたいにやさしい。
そして、トモは決めました。
「ゆう」がまた森に来たときにわかるように、自分の“家”をきれいにしておこうと。
トモは毎日、巣穴の前を掃いて、小川から石を運び、花を植えました。
春の間じゅう、彼は黙々と働き続けました。
通りかかるリスたちが「どうしたの?」と尋ねても、トモはただ「友だちを待ってるんだ」と笑うだけ。
やがて夏が訪れ、森は緑に包まれました。
しかしゆうは現れません。
トモは少し寂しくなりましたが、それでも毎朝、巣穴の前に立って遠くの道を見つめていました。
ある日の夕暮れ、森をオレンジ色に染めながら、小さな足音が近づいてきました。
トモが顔を上げると、そこにあの子が立っていました。
少し背が伸び、帽子をかぶった男の子。
「くまさん!」
ゆうは両手を広げて走ってきました。
トモは驚きながらも、その小さな体をそっと前足で包み込みました。
「まってたよ」
「ぼく、ちゃんと来たよ。あのとき助けてくれたから、お礼言いたかったの」
ゆうは持ってきた小さなリュックから、リンゴを三つ取り出しました。
真っ赤に輝くその実を、トモに差し出します。
「いっしょに食べよう」
トモはうれしくて、胸の奥がぽかぽかと温かくなりました。
森の木々が風に揺れ、夕日が二人を照らします。
リンゴの甘い香りが漂い、トモはそっと一口かじりました。
「おいしい」
「ほんと? よかった!」
その後、ゆうはトモにいろいろな話をしました。
学校のこと、友だちのこと、そして森の絵を描いた話。
トモはゆっくりとうなずきながら聞いていました。
人間の言葉は全部わからないけれど、声の調子や笑い方で気持ちはちゃんと伝わります。
やがて空が暗くなり、蛍が光りはじめました。
ゆうは名残惜しそうに立ち上がります。
「また来てもいい?」
「もちろん」
トモは大きな体を低くして、ゆうと目線を合わせました。
「ゆうが来てくれるなら、ぼくはいつだってここにいる」
ゆうは笑ってうなずき、トモの首に小さなリボンを結びました。
青い布に、子どもの文字で「ともだち」と書いてあります。
それから何年もたちました。
トモは年をとり、動きがゆっくりになりました。
それでも春が来るたび、青いリボンを首に巻き、森の入り口を見つめました。
ある年、とうとうゆうは大人になって戻ってきました。
背は高くなり、声も変わっていましたが、あの笑顔は昔のまま。
トモはもう立ち上がることもできませんでした。
それでも彼はゆうの手を見て、やさしく鼻をすり寄せました。
「ただいま、くまさん」
森の風が静かに吹き抜けました。
二人の間を、あの日のリンゴの香りが通り抜けていきました。
そして翌朝、トモは眠るように息を引き取りました。
ゆうは涙をぬぐいながら、巣穴の前に小さな石碑を立てました。
そこには、青いリボンとともに、一枚の手紙が添えられています。
「くまさんへ。いまでも、ずっとともだちだよ。」
森は静かに光を包み、風がその言葉を運んでいきました。
ヒグマのトモはもういません。
けれど、森を渡る風の匂いの中に、今も確かに、やさしいくまの心が生きているのです。

