古びた木造の家の二階、ほこりをかぶったおもちゃ箱の中に、それは眠っていた。
ゼンマイ仕掛けのブリキのウサギ。
片方の耳が少し曲がり、ペンキの塗装もところどころ剥げている。
名前は「ピップ」。
かつてこの家に住んでいた少女・みゆが大切にしていたおもちゃだった。
けれど、みゆが成長し、この家を出てからもう十年以上が経つ。
誰もいない部屋で、ピップはずっと静かに眠り続けていた。
──少なくとも、昨日までは。
夜、時計の針が十二を指した瞬間。
ピップの体の奥で、乾いた金属音がカチリと鳴った。
ゼンマイは、誰も触れていないのに勝手に巻かれていた。
ギギギ、と軋む音を立てながら、ピップは立ち上がった。
「……あれ? また夜になったのかな?」
その声は小さく、かすれていた。
長い眠りから覚めたばかりのように。
部屋の中は月明かりだけが差し込み、家具の影が長く伸びている。
ピップはその中をよちよちと歩き出した。
テーブルの下をくぐり、カーテンの隙間から外を覗く。
そこには懐かしい庭が広がっていた。
風が吹くたびに揺れる草。
古いブランコ。
もう誰も乗ることのないそのブランコが、きい、と鳴った。
「みゆは……どこへ行ったのかな」
ピップは小さくつぶやく。
彼の胸の奥には、いつか少女が笑いながらゼンマイを巻いてくれた記憶が残っていた。
『ピップ、走って!』
その声が聞こえる気がして、ウサギはぎこちない足で庭へと飛び出した。
土の感触。冷たい夜気。
ピップの動きは次第に速くなり、まるで誰かを探すように庭を駆け回った。
けれど、どれだけ探しても、みゆの姿はない。
代わりに、軒下から子猫が一匹、怯えたように彼を見つめていた。
「ぼくは敵じゃないよ」
ピップが話しかけると、子猫は首をかしげた。
「君……どうして動いてるの?」
「ぼくにもわからない。でも、動かなきゃいけない気がするんだ」
ふたりは不思議な夜の散歩を始めた。
風に吹かれ、星を見上げ、昔の思い出を語るようにピップはみゆのことを話した。
子猫は黙って聞き、時折小さく鳴いて頷いた。
やがて、東の空が白み始めたころ。
ピップの足が止まった。
ゼンマイが切れる音が、チチチ……と響く。
「もう、動けないの?」
子猫が問うと、ピップは笑った。
「たぶん、これでいいんだ。みゆに……もう一度会いたかっただけだから」
そのとき、家の前に車が止まった。
降りてきたのは、大人になったみゆだった。
懐かしい庭を見渡し、涙を浮かべながらつぶやく。
「ここ、変わってないな……」
足元に目をやると、そこには小さなブリキのウサギが倒れていた。
泥だらけで、片耳が曲がったその姿に、みゆの胸がきゅっと締めつけられる。
「ピップ……まだ、いたんだね」
そっと拾い上げると、ウサギの体から微かに音がした。
カチリ。
ゼンマイが、ほんの少しだけ回った。
みゆの手の中で、ピップはゆっくりと首を動かした。
「……みゆ?」
その声はかすかで、風のように儚かった。
みゆは笑いながら涙をこぼした。
「おかえり、ピップ」
朝日が昇る。
木造の家に、柔らかな光が差し込んだ。
ピップはみゆの腕の中で、もう一度だけゼンマイを動かした。
そして静かに、穏やかな眠りについた。
その顔は、まるで幸せな夢を見ているようだった。
──それからというもの、みゆはピップを飾り棚に置き、毎晩そっと声をかける。
「おやすみ、ピップ。また動きたくなったら、いつでもいいからね」
夜になると、部屋のどこかで小さな音がするという。
カチリ、と。
ゼンマイが、ひとりでに動く音。
まるでウサギが、再び夢の中で走り出しているかのように。


